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第15話 ヴェルタに来た人

物語の半分が来ました。

新しい住民は、エイダに師匠の情報をもたらします。


読んでいただけると、嬉しいです。

 ヴェルタに新しい住人が来た、という話をヨルクから聞いたのは、午前中のことだった。


「水路の向こうの空き家に、女の人が引っ越してきたよ。一人暮らしらしい」


 ヴェルタでは、新しい住人が来ると記録師が歓迎を兼ねて住民登録の記録を作る慣習がある。

 その日の午後、水路沿いの家を訪ねた。


 扉を叩くと、しばらくして開いた。


 五十代の女性だった。

 物静かな印象で、髪に白いものが混じっている。

 目が——深い色をしていた。多くのものを見てきた人間の目だ。

 旅の疲れがあるのか顔色はあまり良くないが、立ち居振る舞いに落ち着きがある。


「記録師のエイダです。住民登録の記録を作りにうかがいました」


「ああ」女性は少し微笑んだ。「エイダさんですか。やっと会えた」


 少し驚いた。名乗っていない。


「私のことを、知っているんですか」


「聞いていました。

 ヴェルタに腕のいい記録師がいると」

 女性は扉を大きく開けた。

 

「どうぞ、入ってください。マリスといいます」


 部屋に通されると、荷解きの途中らしく箱がいくつか積まれていた。

 本が多い。

 それから書類の束と、古い記録の写しが何冊か。

 旅をしてきた人間の荷物だ。

 どこか一ヶ所に長く留まっていた感じではなく、あちこちを移動してきた感じがする。


 住民登録の記録を作りながら、部屋を見渡した。


 積まれた箱の一つに、見慣れない文字で書かれた冊子が見えた。


 手が止まった。


「その冊子——見せてもらえますか」


 マリスは少し間を置いてから、冊子を渡してくれた。


 触れた瞬間——息がのまれた。


 師匠の歪みと、同じ色がする。


 同じ人間が書いた文字の感触。

 間違いない。

 あの独特の、真っ直ぐで迷いのない文字の力。

 十六歳から四年間、毎日触れ続けた感触だ。


「これを書いたのは」声が変わらないよう気をつけながら聞いた。


「私の友人です」マリスは静かに言った。

「あなたの師匠でもある人」


 部屋が静かになった。

 荷解きの途中の箱が積まれた、まだ生活感のない部屋。

 窓から水路の音が聞こえている。


「師匠を知っているんですか」


「長い付き合いでした」マリスは椅子に座った。

「師匠から、いつかヴェルタに行ったらあなたを頼れと言われていました。

 ずっと来るつもりでいたんですが——少し遠回りをしてしまって」


 遠回り、という言葉が引っかかった。


「ヴェルタには初めて来たんですか」


「初めてです。

 でも——師匠からよく話を聞いていたから、初めて来た気がしない」


「師匠が、この町のことを話していたからねぇ。

 オーリンという司書のこと。

 霧苔インクのこと。

 それからあなたのこと——あなたがヴェルタに来てから書いた記録の話を、

 師匠は随分と嬉しそうに話していましたよ」


 驚いた。


「師匠が、私の仕事を知っていた?ここでの仕事も?」


「知っていましたよ」マリスは穏やかに言った。

「どういう経路で知るのかは、私にもわからないけれど——師匠はずっと、あなたのことを気にかけていた」


 冊子を持ったまま、しばらく黙った。


 七年間、音沙汰がなかった。

 手紙も、消息も、何も来なかった。

 それが——ここでの仕事を知っていた。

 気にかけていた。


 怒りとも安堵とも取れない、複雑な感情が胸に広がった。


「師匠は今、どこにいますか」静かに聞いた。


 マリスはこちらを見た。

 少し考えるような間があった。


「それを話す前に、少し聞いてもらえますか。

 師匠があなたに伝えてほしいと言っていたことを」


 マリスが語ったのは、七年前のことから始まった。


 師匠がエイダを組織に送り込んだのには、意図があった。

 組織の不正を感知できる人間が必要で、私の能力ならそれができると思っていた。

 でも同時に——私を危険な場所に送ることへの迷いが、ずっとあった。


「師匠は、あなたを弟子以上に大切にしていたの」マリスは静かに言った。

「だからこそ——あなたが逃げ出したとき、師匠は安堵したと言っていました。

 危なかった、でも逃げられた、良かった——そう言って」


「逃げた時、師匠はもういなかった。手紙を出しても返事がなかった」


「そうです。師匠もあなたより少し前に、追われていた。

 あなたに手紙を出せなかったのは——あなたへの手紙が、あなたの居場所を組織に教えることになると思ったから」


 しばらく黙った。


 七年間ずっと疑問だったことへの答えだ。

 なぜ手紙がなかったのか。

 なぜ消えたのか。


 単純な答えだった。守るために、何もしなかった。


「師匠は今、生きていますか」もう一度聞いた。


 マリスはこちらを見つめている。


「二年前まで、生きていました。それは確かです」


「二年前まで」

 ああ、ため息が出る・・・


「その後の消息は——私も知りません」マリスは静かに言った。

「ただ——師匠はあなたに、これを渡してほしいと言っていました。

 二年前に、私に預けていきました」


 マリスは立ち上がり、まだ開けていない箱の一つを開けた。

 丁寧に布に包まれた一冊の本を取り出した。


 差し出された。


 表紙に、私の名前が書いてあった。


 師匠の字で。


 本を受け取った。


 触れた瞬間、涙が出そうになるのをこらえた。


 師匠の歪み。師匠の文字の感触。

 深くて、温かくて、迷いがない。

 冊子と同じ感触——同じ人間が書いた。

 でも冊子より、ずっと重い。


「今すぐ読まなくていいんですよ」マリスは静かに言った。

「師匠も、そう言っていました。準備ができたときに読めばいいと」


「……わかりました」かろうじて言えた。

「ありがとうございます」


「礼は師匠に言ってください。

 私はただ、届けただけだから」


 住民登録の記録を仕上げて、マリスの家を出た。


 水路沿いの石畳を歩きながら、本を胸に抱えていた。


 すぐ読む気にはなれなかった。

 でも——手放す気にもなれなかった。

 ただ抱えて、歩いた。


 図書館の前を通り過ぎようとしたとき、扉が開いてオーリンが出てきた。


 老司書はこちらを見た。それから、胸に抱えた本を見た。


 一瞬だけ、老司書の顔に何かが過ぎった。

 懐かしさのような、痛みのような——その両方が混ざったような何かだった。


「マリスさんに会いましたか」


「会いました」オーリンを見た。

「知っていたんですか。マリスさんがヴェルタに来ることを」


「近いうちに来ると思っていた」


「師匠のことも、知っていたんですか。

 ずっと前から」


 オーリンはしばらく黙った。

 夕暮れの水路を眺めた。

 石畳が橙色に染まっている。

 鐘楼の影が長く伸びている。


「少し話しましょうか」老司書はゆっくり言った。

「今日の方がいい気がする」


 息をのんだ。


 第十四話の夜に「近いうちに話す」と言っていた。

 その「近いうち」が今日だった。


「図書館へ、来なさい」


 オーリンは扉を開けた。


 本を抱えたまま、図書館へ入った。


 扉が閉まった。


 ヴェルタの夕暮れの光の中で、長い沈黙の時間が——ついに終わろうとしていた。


第15話終了。16話に続く。


如何でしょうか。

ついに動き出す感じです。


感想、フォロー、ご指摘、なんでも歓迎いたします。


フォロー、コメント頂けましたら幸いです。

毎日投稿中ですので、よろしくお願いいたします。

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