第14話 オーリンが図書館を出た日
その日、図書館にはオーリンがいませんでした。
エイダは、ちょっと不安になります。
何かが起こり始めています・・・
図書館に来ると、オーリンがいなかった。
三年間、初めてのことだ。
受付の小机の上に、一枚の紙が置いてある。
オーリンの字で「少し出かける。夕方には戻る」とだけ書いてあった。
しばらくその紙を見つめた。
この三年間、オーリンが図書館を留守にしたことは一度もなかった。
朝来ても夜来ても、必ずどこかにいた。
棚の奥、梯子の上、受付の椅子——場所は変わっても、この建物の中に必ずいた。
それがこんなにも当たり前のことになっていたんだな、と今更気がついた。
裏返してみた。何も書いていない。
どこへ行ったのか。何をしに行ったのか。
呼び出されたのか、自分から向かったのか——「少し出かける」だけだ。
メモを元に戻す。追いかけたりはしない。
この老人には、話してくれる前に聞いてはいけないことがある。それは三年間で学んだことだ。
今日の作業に必要な資料を棚から取り出して、仕事部屋に戻った。
でも午前中、どこか落ち着かなかった。
ペンが進まない時間があった。自分でも気づかないうちに、図書館の方角を見ていた。
午後、もう一度図書館に来ると——受付に老人が座っていた。
オーリンではない。
入り口で足が止まった。
七十代とも八十代ともつかない、小柄な男性だ。
白髪で、背中が少し曲がっている。
一見すると、どこにでもいる老人だ。でも——目が違った。
オーリンと同じ種類の目だ。
年齢を感じさせない、澄んだ目。
長く生きてきた人間だけが持つ、静かな深さがある。
この三年間でオーリンの目を何度も見てきたから、この種類の目がわかる。
老人はこちらを見た。
「こんにちは」なるべく平静に言った。「どちら様ですか」
「通りかかったら、留守のようだったので」老人は穏やかに言った。
「オーリンは夕方には戻るでしょう」
「お知り合いですか」
「昔の」
それだけで終わった。
それ以上説明するつもりがないことは、その短さでわかった。
受付の椅子に、自然に座っている。
図書館の空間に馴染んでいる——まるで前にも来たことがあるような、ここを知っているような座り方だった。
「何かご用ですか。資料をお探しでしたら、お手伝いします」
「いいよ。ただ、これを置いていきたくて」
老人は封書を差し出した。「オーリンに渡してもらえるかい」
受け取った瞬間、手に強い感触が走った。
深い、複雑な歪みだ。
怒りではない。
悲しみとも違う。
長い年月の中で積み重なってきた感情の重さ——懐かしさと、警戒心と、何か伝えなければならないという切迫感が混ざり合っている。
そして。
この感触は、生きている人間のものだ。
でも、普通の人間のものではない。
オーリンの文字に何千回と触れてきた。
この感触はそれに似ている。長く生きている人間だけが持つ、特別な重みだ。
「差し出し人のお名前は」封書を持ったまま老人を見た。
「オーリンにはわかる」
「私にはわかりませんか」
老人はこちらを見た。目が、少し細くなった。
「あなたが記録師のエイダかい」
少し驚いた。名乗っていない。
「そうですが」
「オーリンから聞いている。腕がいいと」静かに言った。
「封書に触れて、何か感じたかい」
「感じました」正直に答えた。「長く生きている人間の感触がします。オーリンさんと同じ種類の」
老人は少し黙った。それから、ゆっくりと頷いた。
「そうだよ。私もオーリンも——長く生きている」
それだけ言って、立ち上がった。
「待ってください」思わず言っていた。
「オーリンさんのことを、昔から知っているんですか」
「昔から、ね」老人は少し笑った。
「オーリンの言う『昔』は、普通の人間の『昔』より長い。それはわかっているだろう」
「……はい」
「それと同じくらい、長い付き合いだよ」
老人は帽子を被った。
「オーリンによろしく。それだけでいい」
扉を開けて、出ていった。
封書を持ったまま、しばらく扉を見ていた。
あの老人の足取りは、年齢のわりに軽かった。石畳の音が、すぐに遠くなった。
もう一度、封書を感じた。
オーリンのような存在が複数いる。
ヴェルタで三年間、オーリンを「不思議な老人」と思っていた。
でもそれが一人ではないとわかった今——少しだけ、世界の輪郭が変わった気がした。
夕方、オーリンが戻った。
扉が開く音がして、顔を上げた。
いつも通りの外見だ。でも歩き方に、普段より少し重さがある。
考えてきた、あるいは決めてきた人間の重さだ。
「お帰りなさい。お客がありました。封書を預かっています」
封書を差し出すと——老司書の手が、わずかに止まった。
一瞬のことだったが、見逃さなかった。
オーリンは封書を受け取り、しばらく眺めた。
表面を指でなぞった。封は切らなかった。
「見ましたか、その人を」
「はい。白髪の、小柄な老人でした。
昔の知り合いだと。
あなたと同じ種類の目をしていました」
「同じ種類の、ね」封書を見たまま言った。
「長く生きている人間の目だと思いました。
本人も認めていました。
あなたと同じくらい長い付き合いだとも」
老司書はしばらく何も言わなかった。
封書を手の中で持ったまま、珍しいことに受付の椅子に腰を下ろした。
オーリンが受付に座るのは、普通ではない。
「どこへ行っていたんですか、今日は」
「少し、確かめたいことがあって」
「確かめられましたか」
「……ある程度は」ゆっくり言った。
「その確かめたいこととは、私に関係することですか」
老司書は顔を上げた。穏やかな目がこちらを見た。
でも今日は——いつもより少し、何かを含んでいた。
「関係しないとは言えない」
「はっきり言ってもらえませんか」
「今日は言えない」オーリンは静かに言った。
「ただ——近いうちに、話すべきことがある。まだ今日ではないが」
「近いうちに、とは——いつのことですか。
一週間ですか、一ヶ月ですか」
「そこまで先ではない」
「でも今日ではない」
「今日ではない」
少し黙った。問い詰めたい気持ちがあった。
でもこの老人が「今日ではない」と言う時は、本当に今日ではないのだ。
それも三年間でわかっていた。
「わかりました。待ちます」
「すまないね」オーリンは珍しく、そう言った。
詫びるような言葉は、この老人から初めて聞いた気がした。
少し驚いたが、表には出さなかった。
「封書は、読みますか」
「後で読む」懐にしまった。
「今日は——少し疲れた」
疲れた、という言葉も、初めて聞いた。
仕事道具を片付けながら、棚をもう一度見渡した。
そこで気づいた。
棚に一冊、見たことのない本が増えていた。
他の本と同じ棚に、でも微妙に目立つ場所に置かれている。
表紙に文字がある。どこかで見たような形だが、読めない。
エイダが知っているどの言語とも違うが、でも形の作り方に何か共通点がある気がした。
「この本は」手を伸ばした。
「置いておきなさい」オーリンは静かに言った。
「今日ではない」
手を引いた。
今日ではない、が今日だけで二回目だ。
「この本も、今日来た人が置いていったんですか」
間を置いてから、「そうだよ」と言った。
「その人とあなたは——何者なんですか」言った。
「長く生きている人間が、大陸に複数いる。あなたは何十年も、いやそれより長くここにいる。
その人も同じような存在だ。そういう人間が、なぜ今この時期に動いているのか」
オーリンは受付の椅子に座ったまま、窓の外を見た。夕暮れの光が石畳を照らしている。
「近いうちに、話す」
「それしか言えませんか」
「今日は、それしか言えない」
荷物を持って、扉へ向かった。
振り返ると、オーリンはまだ窓の外を見ていた。
懐にしまったはずの封書が、いつの間にか手の中に戻っていた。
封書を見つめる老司書の横顔は、この三年間で見たことのない表情をしていた。
懐かしさ——でもその懐かしさには、痛みが混じっていた。
何も言わずに、扉を閉めた。
外に出ると、夕暮れだった。
帰り道、今日の老人のことを考えた。
「オーリンにはわかる」という言葉。
「昔から」という言葉。名前を言わなかったこと。
そして——オーリンが「疲れた」と言ったこと。
「すまない」と言ったこと。
この老人がそういう言葉を口にする時は、よほどのことがあった時だ。
何かが、動いている。
鐘楼から夕方を告げる鐘が鳴り、ゆっくりと石畳を歩いた。
第14話終了。15話に続く。
さて、いかがでしたか。
明日も、更新予定です。
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この調子で行けば、30話で完結するでしょう。
もうしばらくお付き合いください。




