第13話 重なる文字
今回は契約書の改竄。
なぜか自分の手元のものだけ変わっている・・・
相手側は、変更されていない。
何故??
エイダは、その謎を探ります。
ペトラという女性は、最初から好印象だった。
三十代半ば、きっちりとした身なりで、書類をきちんと整理して持参している。
話し方も正確で、感情的にならない。
こういう人が本当に困った顔をしているということは、本当に困っているのだな、とすぐわかった。
「サインした契約書の内容が、変わっているんです」テーブルに書類を置いた。
「確かにサインしました。
でも今読み返すと、内容が違う。
取引の数字が変わっている」
「いつ気づきましたか」
「昨日です。先方と話していて、向こうが金額を言い、私の記憶と違ったので確認したら——私の手元のものが変わっていた」
「先方の契約書は」
「先方のものは変わっていませんでした。
私のだけが違う」
「サインしたのはいつですか」
「十日前です。
その後、書類は金庫に入れていました。
誰かに触れさせた覚えはありません」
書類を手に取った。
触れた瞬間、二重の歪みを感じた。
一つは契約書本来の歪み——正式に書かれた、誠実な文字の感触。
もう一つは、その上に薄く重なる別の歪み。
後から書き加えられた文字の感触だ。
「改竄されています。
後から文字が重ねられた」
「やはり」ペトラは唇を引き結んだ。
「でも——霧苔インクの改竄は、感知すればすぐわかると聞いています。
なぜ私は気づかなかったのか」
もう一度、上から重ねられたインクの感触を確かめた。
ヴェルタ産の霧苔インクとは、わずかに違う。
成分が似ているが、同じではない。
別産地の霧苔から作ったものだ——歪みの感触がわずかに異なる。
普通の方法では見抜けない。
「使われているのは霧苔インクですが、ヴェルタ産ではありません」そう答えた。
「通常の確認方法では見抜けないように、意図的に選ばれています」
「普通の改竄ではない、ということですか」
「技術と知識を持った人間が、意図的にやったということ。
ペトラさん、少し聞かせてください。
この十日間、契約書を金庫から出したことはありますか」
「一度だけ。三日前に確認のために出して、すぐに戻しました。
誰もそばにいませんでした」
「金庫の鍵は」
「私だけが持っています。でも——」ペトラは少し考えた。
「金庫自体は、店の帳場にあります。
私がいない時間帯に誰かが入ることは、できなくはない。
鍵を複製されていれば」
「先週、取引先のレガルドさんの事務所を訪ねた時に、外套を預けた、ということはありませんか」
ペトラの顔色が変わった。
「……ありました。鍵は外套のポケットに入れていたかもしれない」
「レガルドというのは、今回の契約の先方ですか」
「そうです。でも——レガルドさんが自分の書類は変えずに私のだけ変えるのは、おかしくないですか。自分のものも変えた方が得ではないですか」
確かにその通りだ。
頭の中で整理した。
「先方が改竄したなら、自分の書類も変えるはずです。
片方だけ変えても、いずれ比較されれば発覚する。
先方ではない誰かが、ペトラさんの書類だけを狙った。
先方は巻き込まれた側かもしれない。
一緒に確認しに行きましょう」
ペトラと一緒に、レガルドの事務所へ向かった。
レガルドは五十代の男性で、長年ペトラと取引してきた商人だという。
事情を説明すると、最初は驚いた顔をしたが、すぐに落ち着いて考え始めた。
仕事ができる人間の反応だ、と思った。
「先週ペトラさんが来られた時に外套を預かりました。確かに」レガルドは言った。
「でも私は鍵には触れていない。ただ——事務所には番頭が二人いて、私が席を外した時間もあった」
「番頭さんたちは今どこに」
「一人は今日来ています。
もう一人は…三日前から姿が見えない。
急に来なくなって」
ペトラとこちらで目を合わせた。
「その番頭さんが来なくなったのは、私の書類を確認した翌日ですか」ペトラが聞いた。
「……そうなります」レガルドは顔色を変えた。
「その番頭さんについて、教えていただけますか。
いつから働いていたか」
「半年ほど前から雇っています。
前の職場は大陸の別の都市の商会だと言っていました。
仕事は丁寧で、信頼していたんですが」
半年前、か。
組織が動き始めていると感じるようになったのは最近だ。
でもその準備は、もっと前から始まっていたのかもしれない。
「その番頭さんが使っていた机を、確認させてもらえますか」
番頭の机を調べると、引き出しの奥に小さな硝子瓶が二本残っていた。
一本はほぼ空だった。
蓋を開けて触れた。
例の別産地の霧苔インクだ。
「これが改竄に使われたインクです。
この番頭さんが、鍵を複製してペトラさんの書類を書き換えた——そういうことだと思います」
「なぜそんなことを」レガルドは首を振った。「誰の指示で」
「それはわかりません。
ただ——最初からその目的でここに入り込んでいた可能性があります。
仕事を丁寧にこなして信頼を得て、機会を待っていた」
「ペトラさんを狙って」
「あるいは、ペトラさんとレガルドさんの取引を壊すために。
どちらかはわかりませんが、どちらも同じ結果になる」
ペトラがゆっくり言った。
「私とレガルドさんの取引が壊れれば、どちらにとっても損になります。
でも——それで得をする第三者がいるということですか」
「そういうことになります」
事務所を出て、ペトラに今後の対処を伝えた。
「まず、改竄の証拠となる記録を正式に作ります。
それがあれば、法的な問題になった場合にも対応できます。
契約の効力は元の内容で有効です。
それからもう一つ……金庫の鍵を変えてください。
複製されている可能性がある以上、今の鍵は使えない」
「番頭の件はどうすれば」
「姿を消している以上、今すぐ追及はできません。
ただ——レガルドさんの事務所に残っていたインクの瓶は、証拠として保管してもらいましょう。
いつか役に立つかもしれない」
ペトラが少し間を置いてから聞いた。
「記録師さんは——こういうことに慣れているんですか」
「慣れているとは言えませんが」言った。「こういう手口を、前に見たことがあります」
それ以上は言わなかった。ペトラも聞かなかった。
その夜、図書館へ向かった。
オーリンに今日のことを報告すると、老司書は黙って最後まで聞いた。
「別産地の霧苔インク、事前に人を送り込む手口」と言うと、老司書は少し間を置いてから棚の方へ歩いた。
少しして、薄い冊子を持って戻ってきた。
「これを見てごらん」
冊子を開いた。
複数の産地の霧苔インクの特性が比較されている。
最後のページに注記があった。
「改竄目的で使用された事例あり。感知が難しいため注意」。
「前から持っていたんですか、これを」思わず聞いた。
「備えておいた方がいいと思って」
「いつから」
「さあ」老司書はいつもの答えを返した。
「オーリンさん、今日の件——組織が関わっていると思います。
別産地のインク、事前に人を送り込む手口、全部あの組織のやり方と一致します。
ヴェルタの周辺で、確実に動き始めている…」
老司書は何も言わなかった。
「怖くないんですか。
私がここにいることで、この町に危険が及ぶかもしれない」
オーリンはしばらく黙って、棚を見たままだった。
「ヴェルタに来てから三年、あなたは何かを解決するたびに、この町の誰かの役に立ってきた。
それがこの町への答えだと、私は思っている」
「それは答えになっていません」
「そうかもしれない」老司書は振り返った。「でも——備えはしている。あなたが来る前から、ずっと」
「何に備えて?」
「さあ」
息を吐いた。今日の「さあ」は、いつもより少し答えに近かった気がした。
でも今夜はそれ以上聞けなかった。
ヴェルタの夜が、静かに深まっていった。
第13話終了。14話に続く。
さて、いかがでしょうか。
エイダの周りで、様々な事が起こり始めています。
組織は何をしようとしているのか?
師匠はどうしたのか?
読んでいただけたら、幸いです。
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