第12話 消えた宿帳
宿泊施設である「宿」に、宿泊名簿を記録します。
ヴェルタにも、「宿」があり、そこで発生した事件。
エイダに持ち込まれた、その話はどうなりますか?
読んでいただけましたら幸いです。
ヘルガが来たのは、朝の仕事が一段落した頃だった。
いつも声が大きくてテキパキしているヘルガさんが、なんか声が低い。
これは良くない兆候だ、と扉が開いた瞬間にわかった。
「変なことが起きていて」宿屋の女主人は、腕を組んで言った。「宿帳のある日付のページが、消えているんです」
「破られたんですか」
「違います。ページはある。
紙もある。でも——文字だけが、きれいに消えている」
「いつ気づきましたか」
「今朝です」ヘルガは少し言いにくそうに言った。
「屋根の修理を頼もうと思って、三年前に頼んだ職人の名前を宿帳で調べていたんです。
そのページを見ていたら、気づいて…」
ちょっと悔しそうに言う。
「特定の日付だけ消えているということは、そのページを見なければ気づかなかったと思うの?」
「そうなんです。普段は最近のページしか見ませんから——ずっと気づかなかったかもしれない」
ヘルガは眉を寄せた。
「でも、一体誰が、何のために」
一緒に宿屋へ向かう。
ヘルガは、いらいらしている様子が歩き方でわかる。
宿帳は受付の棚に置かれていた。
ヘルガが示したページを開く——確かに、一日分だけ、文字がなかった。
日付は印刷されているので残っているが、その日の宿泊客の名前も部屋番号も金額も、すべて消えていた。
ページに触れた。
かすかな歪みがある。
消えた文字の残滓だ。インクが消えても、文字が持っていた魔力の痕跡は完全には消えない。
ここに文字があったことはわかる。
でも内容まではわからない。
それと、もう一つ。
消し方の感触に、見覚えがあった。
文字を消すのに、特殊なインクが使われている。
霧苔インクで書かれた文字を、上から別の成分で中和して消す技術。
組織にいたとき、一度だけ見た手口だ。
緊急時に記録を消去するために使われる、組織独自の方法だった。
胸の中で、何かが冷えた。
顔には出さなかった。
「この日付…何か覚えていますか、この日に泊まっていた客のことで」
「記録がないのでわかりませんが——」ヘルガは少し考えた。
「その日だけ空白なんです。
前後には別の客がいる。
ただ、翌日の掃除のとき、部屋に忘れ物があって」
「忘れ物?」
「小さな金属製の留め具が落ちていて。
書類を束ねるやつですが、誰のものかわからなくて、しばらく預かっていました。
今もあります」
「見せてもらえますか」
ヘルガが取り出したのは、真鍮製の小さな留め具だった。
受け取った瞬間、手が止まった。
組織の書類留め……間違いない。
組織にいたとき、毎日使っていた。
特注品で、市場では手に入らない。
「ありがとうございます」返しながら、努めて平静に言った。
「少し調べてみます。今日中に、何かわかれば報告します」
「何か、まずいことですか」ヘルガは心配そうな顔で聞いた。
「宿帳が消えた原因を調べるだけです」そう告げた。
「ヘルガさんには関係のないことだと思います。
ただ——この件は、少し内密にしておいてもらえますか」
「わかりました」ヘルガは頷いた。「でも——エイダさん、大丈夫ですか」
「大丈夫です」
宿屋を出た。
外に出てから、深呼吸した。
消えた宿帳の日付を確認した。
三年と二週間前。
頭の中で計算した。
エイダがヴェルタに来たのは、三年前のことだ。
あの頃のことは、疲弊していて記憶が曖昧だ。
組織から逃げて、いくつかの町を転々として、ヴェルタに流れ着いた。
宿屋には泊まっていなかった。
名前を書けば追跡される、そう思って避けていた。
じゃあ、どこにいたか。
立ち止まった。
図書館だ。
あの頃、毎日図書館に来ていた。
ただ安心できる場所が必要で、本と石と静けさの中にいたかった。
気がつくと眠っていた。
オーリンが黙って毛布を持ってきてくれた——そんなことがあった気がする。
図書館の奥に、小さな客間があった。
「資料整理の作業員が使う部屋だ」とオーリンが言っていた。
エイダは何日か、そこで眠った。
宿帳には、名前がない。
組織の調査員がヴェルタに来て、宿帳を確認して、エイダの名前がなければ——いないと判断する。
石畳の上で、しばらく動けなかった。
偶然じゃない。
あの頃のオーリンの行動を、もう一度思い返した。
毎日来ても嫌な顔一つしなかった。
毛布を出してくれた。
客間を「使っていいよ」と言った。
宿屋には一度も案内しなかった。
全部——意図的だったのかもしれない。
図書館に向かった。
オーリンは書棚の奥の机で、写本の照合をしていた。
近づくと、いつもの穏やかな目が上がってくる。
でも今日は、その穏やかさが少し違って見えた。
なんというか——待っていた、みたいな顔だった。
「宿帳のとあるページが消えている件を調べていました」
オーリンは、じっと見返している。
「三年前に、特殊なインクで記録が消されていた。
組織が使う手口と同じです」
「そうかい」
「組織の書類留めも見つかりました。
あの頃、宿屋に泊まった誰かが落としていったものです」
老司書は黙って、こちらを見ていた。
「オーリンさん」そっと聞いてみた。「当時、宿屋に案内しなかったのは——わざとですか」
長い沈黙だった。
「あなたが来た頃、この町を誰かが探っていた気配があってね」オーリンはゆっくり頷く。
「宿帳に名前があれば、見つかってしまう。
だから——客間を使ってもらった」
「知っていたんですか。
私が追われていることを」
「うっすらとね」老司書は静かに言った。
「詳しいことは知らなかったよ。
でも——ここに来た時のあなたの顔を見れば、わかることもある」
そうか。あの頃の自分の顔か。
自分ではわからないけど、他人からはわかるものなんだろう。
「ありがとうございます」気がついたら言っていた。「あの時のこと」
「礼は要らないよ」オーリンは書棚を見た。
「ここは図書館だからね。
記録を守る場所だ。
人も、記録のうちかもしれない」
なんかうまいこと言う人だな、と思いながら聞いた。
「消された宿帳——あれを消したのは、組織の調査員だということですか」
「そうだろうね。
あなたの名前が宿帳にないことを確認して、ここにはいないと判断して立ち去った——ということだと思う」
「でも今は名前が出回っている、とターヴォが言っていました。
ということは——また動き出している」
「そうかもしれない」オーリンは静かに言った。「ただ——今のあなたと、三年前のあなたは、違う」
「どう違うんですか」
「三年前は逃げてきた。
今は——ここにいる」
その言葉を、しばらく考えた。
逃げてきた。
今はここにいる。
その違いが何なのか、うまく言えないけれど——少し、わかる気がした。
「ここにいることが、大丈夫なんですか」そう聞いてみた。
「私がここにいることで、この町に迷惑がかかるなら——」
「ここにいなさい」オーリンは静かに、でもはっきりと言った。
「備えはしている。
あなたが来る前から」
「何に備えて」
「さあ」
……絶対わざとそう言ってる。
でもそれ以上は聞けなかった。
この老人には、まだ語りたくないことがある。
それは三年間でわかっていた。
「わかりました」立ち上がった。
「エイダさん」オーリンが後ろから言った。
「はい」
「今日の件は——よく気がついた」
それだけだった。でも今日のオーリンには、それが十分だった気がした。
図書館を出た。
夜の石畳が、霧苔の靄に霞んでいた。
水路の音が静かに流れている。
三年前、逃げてここに来た。
今は——ここにいる。
それだけのことだけど、今夜はそれが少し頼もしく感じた。
第12話終了。13話に続く。
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