第9話 記録の意味
数日後、俺はまたミラ老師の家に行った。
今度は呼ばれた。使いの人が工房に来て「老師が話があると言っています」と伝えてくれた。使いはイネという名前の、六十代の女性だった。老師の家の家事を手伝っている人らしく、来るたびに工房の前の草を気にしていた。
「そこの雑草、抜いた方がいい」
「抜きます」
「ガルトは気づかないからな。あなたがやりなさい」
俺がやることになった。
坂を上るとき、途中でダンに会った。
エッダ工房から出てきたところで、手に筒を抱えていた。どこかに届け物に行くらしかった。
「レン。老師のとこか?」
「呼ばれました」
「老師に気に入られたな。あの人、気に入らない人間には会わないから」
「そうなんですか」
「エッダ師匠でさえ、直接会えないことがあるって言ってた。すごいな、師匠の息子」
俺がその話をしたわけじゃないのに、なぜかダンの中では「ガルト師匠の息子」という属性が先に来る。
「ダンさんは何年目ですか」
「三年。来年、三等師の試験を受けるつもり」
「合格できそうですか」
「……多分な。ソーラさんより一年遅れそうで悔しいけど」
ソーラの名前が出ると少し顔が変わる。競争相手として意識しているらしかった。
「ソーラさんは優秀ですよ」
「分かってるよ。でもあいつに負けたくないのは別の話だ」
そう言って歩いていった。三年でそのレベルならダンも相当な腕なのだろうと思いながら、俺は坂を上り続けた。
老師は今日も庭にいた。今度は椅子に座って、何かを読んでいた。
「来たか。座れ」
庭に椅子が二つ出てあった。用意されていた。
「聞きたいことがある」と老師は言った。
「俺がですか」
「お前に。星図師の仕事をなんだと思っているか、前に聞いたな」
「はい。まだ分からないと答えました」
「考えたか」
「考えています」
「今の答えは?」
俺は少し整理した。
「記録することだと思います。空の事実を、正確に、残すこと」
「残して、どうする」
「誰かが使う。漁師や旅人が使う。でも——」
俺は続けた。
「使う人がいなくなっても、記録は残ると思います。百年後に誰かが見たとき、その時代の空がどうだったか分かる。それが——」
うまく言葉にならなかった。
「続けろ」
「記録がある限り、それは存在し続ける、という気がします。星が消えても、記録の中にある。誰も覚えていなくても、書いてあれば、あったことになる」
老師がしばらく黙っていた。
「カイが言っていたことに、少し似ている」
「どんなことを言っていましたか」
「記録は死なない。書いたものは残る。だから書き続けると言っていた。誰も信じなくても」
俺は頷いた。
「俺もそう思います」
「お前はカイと違う点がある」
「何ですか」
「カイは信じてもらえないことを、かなり気にしていた。最後の方は、それが苦しくなっていた。お前は——今のところ、あまり気にしていないように見える」
俺は考えた。
「気にしていないわけじゃないです。でも、信じてもらえなくても記録が消えるわけじゃない。だから——まあ、いいかと」
「いいか」
「記録帳はここにある。俺が知っている。それで十分という気がして」
老師が少し笑った。白髪の老人が笑うと、目の周りのしわが深くなった。
「変な子だ。ガルトも変だったが、また違う方向に変だな」
帰り際、老師が言った。
「一つ教えておく。私が若い頃、記録をやめた理由」
俺は立ち止まった。
「前に、見ないようにしたと言った」
「はい」
「本当は、見えていた。ずっと見えていた。でも——記録して、誰も信じなくて、カイが死んで、それで——続けることが怖くなった」
老師の声が少し変わった。
「正直に言うと、お前たちのような若い人間に続けてほしかった。私の代わりに。でも無責任だと分かっているから、言えなかった。だから星図を渡した。続けるかどうかはお前が決めることだ」
俺は老師を見た。
「続けます」
「なぜ」
「気になるから。それだけです」
老師はうなずいた。
「それだけで十分だ」
工房に戻ると、マーゴさんが夕飯の差し入れを持ってきていた。
「老師のとこ行ってたのか。何か言われたか?」
「記録を続けろと言われました」
「老師らしいな。あの人、昔はすごく記録魔だったって聞いたよ。工房中が記録物だったって」
「今でも多かったです」
「今のは残ってるやつだけだよ。昔はもっとあったって。途中でぜんぶ捨てたって話だから」
俺は手が止まった。
「捨てた?」
「らしいよ。なんかあったんじゃないかね。あの人、自分のことあまり話さないから詳しくは知らないけど」
マーゴさんは差し入れを置いて帰っていった。
俺は部屋に戻って、記録帳を開いた。
捨てた記録は戻らない。消えた星は戻らない。でも、今から書くものは残る。
今日の日付を書いた。そして「記録は死なない」と書いた。
カイが言っていたことを、俺も書いた。俺の記録帳の中に、カイの言葉が残った。




