第7話 漁師の星が消えた
嵐の翌朝は、空が洗われたようになる。
雲が全部流れていって、青がそのまま出てくる。俺はこういう朝が好きだった。前の世界でも嵐の翌日の観測データは値が安定していた。ノイズが少ない。条件が良い。
でも今朝は、あまりそういう気分になれなかった。
工房の前でほうきをかけていたら、テオが店の前に椅子を出してこちらを見ていた。
「嵐、大変だったな」
「嵐はどこも大変ですよ」
「うちの店の看板が飛んだ。もう三回目だ」
「固定の仕方を変えた方がいいかもしれません」
「言われなくても分かってる。めんどくさいんだよ」
テオはそういう人だった。分かっているのにやらない。でも人当たりは悪くない。
そのとき、港の方から人が走ってきた。漁師の格好をしていた。若い男だ。
「ガルトさんの工房はここか!」
俺が「そうです」と答える前に、男はもう玄関の扉を叩いていた。
父が出てきた。
「コルダ組合からです。急ぎで来ました」
男が息を整えながら言った。
「昨夜の嵐が明けて、夜明け前に出港したんですが——夕明け星が、見えなかった。ベテランの船頭が三人確認しましたが、全員見えなかったと言っています。雲じゃないかとも思ったんですが、周りの星は見えていて」
父が眉を寄せた。
「今朝の出航前か」
「はい。コルダさんが『星図師に確認しろ』と言って、俺が走って来た次第です」
「分かった。昨夜の観測はできなかったが、今夜確認する。それまでは——」
「船は止めてあります。コルダさんが止めた」
父はうなずいた。
俺はそのやり取りを聞きながら、胸の中で何かが固まっていく感覚があった。
夕明け星が見えなかった。
俺の記録帳では、あの星は二週間以上かけて少しずつ暗くなっていた。もう限界まで来ていたのかもしれない。
父が漁師の若者を帰してから、俺に言った。
「今夜、一緒に観測塔に上がれ」
「はい」
その日の昼、工房に来客が重なった。
まずエッダ工房のエッダさん本人が来た。五十代の女性で、短く刈った白髪と、日焼けした顔が印象的だった。ガルトと同期の二等星図師で、こちらはどちらかというと沖合いの航路専門だ。
「ガルト、聞いたか。夕明け星の話」
「今朝、組合から来た」
「うちにも問い合わせが来た。あたしのところは管轄外だと言ったけど、港全体の話だとなると無視できなくてね」
エッダさんはガルトと向かい合って座った。俺は邪魔にならないよう隅にいた。
「雲か霞かと思ったんだが、周辺星が見えていたなら違う話だな」
「そうなる。今夜確認するつもりだ」
「観測誤差という線は?」
「複数の船頭が同じ報告をしている。その可能性は低い」
エッダさんが少し考えた。
「機器の問題は?」
「肉眼で見えなかったという報告だ。機器は関係ない」
「そうか」
エッダさんはそこで俺を見た。
「ガルトの息子か。レン、だったか」
「はい」
「何か知っているか」
俺は一瞬迷った。大人の話に割り込んでいいか。でもエッダさんは本当に聞いていた。試しているわけじゃない。情報を集めている目だった。
「……二週間ほど前から、夕明け星の輝度が少しずつ落ちていると感じていました。毎晩、自分の記録帳に書いていました」
場が静かになった。
「記録帳を持ってこい」と父が言った。
俺は部屋から記録帳を持ってきた。ガルトとエッダさんが並んで見た。
数値の列が並んでいる。日付と、輝度の推定値と、方角の確認。前の世界の天文観測と全く同じ形式で、この世界に来てから自分で考えた表記法だ。
「……これは」エッダさんが言った。「傾向がある」
「ある」と父が言った。声が少し低かった。
「見ていたのか、ガルト」
「知らなかった」
父が俺を見た。怒っているわけじゃなかった。でも、何かを受け取ろうとしている目だった。
夜、三人で観測塔に上がった。父と、エッダさんと、俺だ。
空は澄んでいた。嵐の翌日の、条件のいい夜だった。
西の空を見た。
夕明け星がある場所を。
何もなかった。
周りの星は見えている。でも、そこだけ——そこだけ、黒い。
エッダさんが小さく「本当だ」と言った。
父は何も言わなかった。
俺も言わなかった。言えることは何もなかった。ただ見ていた。
消えた星の場所を、目に焼き付けるように。
帰り際、エッダさんが父に言った。
「明日、院の巡回があったら報告するか?」
「しても、誤差と言われるだろう」
「そうかもしれないが、記録には残る」
「……考える」
エッダさんが帰った後、父と俺だけになった。
「レン」
「はい」
「今夜のことを記録帳に書いておけ」
「分かりました」
「お前が二週間、書き続けていたことは——」
父は止まった。何かを言おうとして、言えなかった。
「まあいい。書いておけ」
それだけ言って、部屋に戻った。
俺は観測塔に一人残って、もう少し西の空を見た。
夕明け星があった場所は、もう戻らない気がした。理由はないが、そういう確信があった。
記録帳を開いて、今夜の日付を書いた。数値の代わりに、一言だけ書いた。
「消えた」




