第6話 嵐の夜
嵐が来る前は分かる。
空の匂いが変わる。湿度が上がって、風の向きが少し変わる。前の世界でも気圧の変化は数値で読んでいたが、体で感じる方が早いと気づいたのはこの世界に来てからだ。人間の感覚器官は、思ったより精度が高い。
「今夜は嵐だ」と俺が言うと、ソーラが窓の外を見た。まだ雲も出ていない。
「なんで分かるの」
「匂いです」
「匂い……」
ソーラは少し考えてから「まあいいか」と言って自分の仕事に戻った。信じるかどうかではなく、事実確認は夜にすればいいという判断だった。合理的だと思った。
夕方になって本当に雲が出てきたとき、ソーラが一言だけ言った。
「合ってた」
それだけだった。でも、それだけで十分だった。
夜、嵐になった。
雨が窓を叩いて、風が工房の隙間から入ってくる。観測はできない。父も早々に片付けを終えて、写図室に引き上げていた。
こういう夜、普段は各自の部屋に戻って終わりだ。でも今夜はソーラが帰れなかった。外が荒れすぎていて、帰る途中に危険だと父が判断した。
「泊まっていけ。客室を使え」
「すみません、師匠」
ソーラが部屋に引き上げて、父と俺だけになった。
台所でお湯を沸かしていたら、父が入ってきた。
「茶を淹れるか」
「淹れます」
並んで座って、嵐の音を聞いた。
ガルトは無口だ。こういう夜もだいたい無口で、それがふつうだった。でも今夜は少し違った。お茶を一口飲んでから、父が口を開いた。
「お前の母親が、嵐の夜に好んでいたものがある」
俺は手を止めた。母親の話は、父からほとんど聞いたことがなかった。
「どんなものですか」
「夜の嵐の音。怖いから好きというのではなく、雨の音と風の音が重なるのが好きだと言っていた」
父の声が、少しだけ普段と違った。柔らかい、というのとは違う。ただ、いつもより遠い。
「どんな人でしたか」
「お前が生まれる前に亡くなった。見せてやれなかったのが、今でも悔やまれる」
俺は何も言えなかった。慰めるべきかとも思ったが、そういう顔じゃなかった。静かに、ただ思い出しているだけの顔だった。
「俺がここに工房を構えたのも、あいつのためだった」
ガルトが続けた。
「あいつがファーレンの出身でな。結婚するときに、ここに来た。星図師の工房が空いていると聞いて、それを引き継いだ」
「だからファーレンなんですね」
「そうだ。星図師として腕を磨くだけなら、エルドの方が条件は良かった。でも俺はここを選んだ」
父は窓の外の嵐を見た。
「後悔はしていない。ファーレンは星がよく見える。仕事も安定した。ただ——」
そこで止まった。
「ただ?」
「お前に見せてやりたかった。あいつと俺が最初にここで一緒に空を見た夜を」
俺はお茶を一口飲んだ。
父がこういう話をするのは初めてだった。嵐の夜だからか、ソーラがいないからか、あるいは俺が少し大きくなったからか。分からなかった。でも、聞けて良かったと思った。
しばらく二人で黙っていた。
嵐の音はまだ続いている。雨が強くなったり弱くなったりしながら、窓を叩いていた。
「父さん」
「なんだ」
「空を見るのが好きですか」
「好きかどうかは考えたことがない。ただ見ている」
「前世——」
俺は危うく口を滑らせかけた。「前の世界では」と言いかけて止めた。
「……昔から、空が気になる性分で」
「お前は俺に似た」
父が珍しく少し笑った。
「ガルトさんも、空が気になる性分ですか」
「ああ。子どもの頃から、空を見ると何かが分かる気がして、ずっと見ていた」
俺は少し考えてから、もう一つ聞いてみた。
「空が、昔と違って見えることは……ありましたか」
間があった。
「どういう意味だ」
「何かが変わった、とか。前と違う感じがする、とか」
父が俺を見た。さっきまでと少し違う目だった。
「なぜそれを聞く」
「気になっていて」
また間があった。嵐の音だけが続いた。
「……ある」
父の声が小さかった。聞こえたかどうか分からないくらい。
「ある、というのは」
「若い頃、師匠に聞いたことがあった。空が少し変わった気がすると。師匠は気のせいだと言った。俺もそれ以上考えなかった」
それだけ言って、父はお茶を飲み干した。立ち上がって、片付けを始めた。
「寝ろ。明日も仕事だ」
話は終わりだった。
自分の部屋に戻って、記録帳を開いた。
今夜の嵐で観測はできなかった。数値は書けない。でも別のことを書いた。
「父も若い頃に気づいた。師匠に気のせいだと言われ、やめた」
一行だけ書いた。
嵐の音を聞きながら、俺は翌朝の空を考えた。嵐の後の空は澄んでいることが多い。明日、夕明け星はどのくらいの明るさになっているだろうか。
記録帳を閉じる前に、もう一行書いた。
「父は知っていた。でも書かなかった」




