第5話 最初の星図
見習いの練習には段階がある。
最初は素材の扱い。次が線の引き方。次が方角の読み方。そして星図の写し——先輩が描いた図を手本に、寸分違わず再現する。これを繰り返して、手と目が覚えていく。
一方で、父から言われていることがある。
「写しは写しだ。手本と同じに描けたら合格。それ以上は要らない」
要らない、というのは、自分の解釈を加えるな、という意味だ。星図師は空の事実を記録する。解釈はしない。ガルトの信条で、工房の原則でもある。
俺はその原則が、少し引っかかっていた。
ある日の午後、ソーラが写しの課題を出してきた。
「これを写して。北の空の基本図。来週中に」
渡されたのはA4ほどの星図だった。北の空の主な星が描いてある。基本的な図で、難しくはない。でも星の数が多く、位置の精度が求められる。
「分かりました」
「師匠がチェックするから、手を抜かないで」
「抜きません」
「あと——」
ソーラが少し間を置いた。
「自分で何か足そうとするのは、今の段階では良くない。写しは写し。それだけに集中して」
見透かされていた。俺が何を考えているか、言葉にしていないのに。
「……はい」
写し自体は三日で終わった。
丁寧に描いて、方角も確認して、手本と並べてほぼ同じものができた。ソーラが確認して「悪くない」と言った。父が見て「合格」と言った。
それで終わりのはずだった。
でも俺には、気になることがあった。
手本の星図に描かれている星の一つが、今の実際の空と比べて、位置がわずかにずれていた。ほんの少し——普通に見たら気づかないレベルだ。でも数値で言えば0.5度ほど違う。手本が古い図だから、経年で変化した可能性もある。あるいは俺の感覚が間違っている可能性もある。
でも、書いておきたかった。
俺は完成した写しの余白に、小さく数値を書き込んだ。「実測値との差:0.5度(推定)」と。
それをガルトに見られた。
「これは何だ」
父の声は静かだった。怒鳴るわけじゃない。でも明らかに、いつもより重かった。
「手本との差が気になったので、書いておきました」
「誰に言われた」
「言われていません。自分で」
「写しに自分の記録を足すな」
「でも実際の空との差が——」
「レン」
短く呼ばれた。
「写しは写しだ。お前が何かを加える場所じゃない。手本を正確に再現する。それが今の段階でお前に求められていることだ」
「分かっています。でも、差があるなら——」
「差があるなら、俺に言え。お前が余白に書き込む話じゃない」
俺は黙った。
言っていることは分かる。見習いが勝手に手本を批評するな、ということだ。手順がある。感じたことがあれば師匠に伝える。自分で完結させるな。
でも——書かないでいられなかった。見えてしまったら、書かずにはいられない性分だった。前の世界からずっとそうだった。
「すみません」
俺は素直に頭を下げた。
ガルトは少し間を置いてから言った。
「差があるなら、別の紙に書いておけ。写しに混ぜるな」
それだけ言って、仕事に戻った。
翌日、エッダ工房のダンが来た。
エッダ工房はファーレン唯一のもう一つの星図師工房で、ガルト工房と同じ通りの少し先にある。ダンはそこの見習いで、十六歳。俺より九歳上だ。
「ガルト師匠に挨拶に来た」とダンは言ったが、工房の前で俺と鉢合わせしたときの顔は、少し別の意味を持っていた。
「お前がガルト師匠の息子?」
「そうです」
「思ったより小さいな」
「七歳なので」
「……そうか」
ダンは少し居心地が悪そうだった。小さい子に当たってしまったと思ったのかもしれない。
父に挨拶して、すぐに帰るかと思ったら、帰り際に俺のそばに来た。
「お前、線の引き方どこで習った? さっき窓から見えたけど、変な引き方してた」
「変というのは」
「普通と違う角度。でも滲みはきれいに出てたから、間違ってるわけじゃないんだけど」
ソーラと似たようなことを言う人だと思った。俺の手の動きを、ちゃんと見る人らしかった。
「自分で見つけた引き方です」
「自己流か。うちの師匠は自己流を嫌う人だけどな」
「ガルトさんも嫌います」
ダンが笑った。思ったより気さくな人だった。
「俺、ダン。よろしくな、ガルト師匠の息子」
「レンです」
「レン、か。変な名前」
「よく言われます」
夜、記録帳を開いた。
今日の数値を書き込んで、それから別のページに「写しへの追記を父に注意された」と書いた。感情の記録じゃなく、出来事の記録だ。こういうことも書いておく癖は、前の世界からある。
それから「別の紙に書いておけ」という父の言葉を思い出した。
怒っているわけじゃなかった。書くなではなく、混ぜるな、だった。場所を分けろ、ということだ。
俺は記録帳の後ろから新しいページを開いた。そこに「観測補足」という欄を作った。正式な数値とは別に、気になったことを書く場所だ。
最初のページに、手本の星図との差を書き直した




