第4話 ミラ老師
工房に客が来た。
午後の、一番光が斜めになる時間帯だった。俺は写図室で星紙の練習をしていた。ソーラは隣の部屋で父の補佐をしていた。
玄関の扉が開く音がして、父が「老師」と言った。
俺が顔を出すと、入口に小柄な老人が立っていた。白髪で、背が低くて、一見すると普通のおばあさんに見える。でも目が違った。しわの奥にある目が、やたらと鋭かった。品定めするとか、試すとかじゃなく——何かを正確に見ている目だった。
その目が俺に向いた。
「これがレンか」
「はい」
「挨拶は?」
俺は頭を下げた。
「はじめまして。レンです」
「ミラという。お父さんの師匠をやっていた」
ガルトの師匠。それがミラ老師だということは聞いていた。ファーレンに住んでいて、引退後も時々工房に来ると。実際に会うのは初めてだった。
お茶を出して、大人たちが話している間、俺は隅に座って練習を続けていた。途中から、ミラ老師の視線が何度か俺の手元に向いているのに気づいた。話しながら、確認するように見てくる。
しばらくして、ミラが口を開いた。
「レン、一つ聞いていいか」
「はい」
「今、何を書いている」
「星紙の練習です。線を引いて、方角の滲みを確認しています」
「どんな線を引いた」
俺は練習用の紙を見せた。何本か線が引いてある。
ミラは眼鏡を出して、丁寧に見た。
「この線——」
白髪の指先が一本を指した。
「方角を確かめようとして引いたのか、形を確かめようとして引いたのか、どちらだ」
珍しい聞き方だと思った。
「方角です。この滲みの傾きを読もうとして」
「なぜこの角度から引いた」
「……このくらいの角度で引くと、北への滲みが一番読みやすいと思ったので」
ミラが父を見た。
「ガルト、この子はどのくらいやっている」
「星紙を触り始めて三日だ」
ミラがまた俺を見た。今度は眼鏡を外して、直接目で。
「三日で滲みの角度の個人差を把握した?」
「個人差というか……自分が引きやすい角度があると思って」
「それを知るのに普通は一ヶ月かかる」
俺は何も言わなかった。一ヶ月かかるなら、俺がおかしいのだろうとは思う。でも感覚的にわかってしまうものは仕方がない。
帰り際、ミラが玄関で俺に言った。
「星図師の本当の仕事は何だと思う?」
試されている。でも意地悪な試し方じゃない。本当に聞いている感じがした。
「……空を、正確に記録することだと思います」
「記録して、どうする」
「漁師さんや旅人さんが使う。命に繋がる」
「そこで終わりか?」
終わりじゃない気がした。でも言葉にならなかった。
「……まだ分からないです」
ミラはうなずいた。
「正直でいい。分からないなら分からないでいい。でも考えておけ。星図師の仕事の本当の意味を」
それだけ言って、帰っていった。
夕方、父が珍しく俺に話しかけてきた。
「老師のことをどう思った」
「目が鋭い人だと思いました」
「そうだな」
「師匠さんなんですか、ガルトさんの」
「ああ。二十年以上前に世話になった」
父は少し遠い目をした。それ以上話す気はなさそうだったが、俺は続けた。
「老師は今でも現役なんですか」
「正式には引退している。でも見る目は現役だ」
「今日、俺の練習紙をずっと見てましたよ」
「知ってる」
「何か言ってましたか」
父はしばらく黙った。
「いい目をしていると言っていた」
褒められたのかどうかよく分からなかったが、父の言い方からして、ミラ老師にそう言われるのはそれなりのことらしかった。
その夜、食堂のマーゴさんが弁当の余りを持ってきた。
「ガルトー、夕飯余ったから持ってきたよ。受け取れ」
マーゴさんはこういう人だった。港のそばで食堂をやっていて、「余った」と言いながら定期的に工房に食べ物を届けてくれる。余っているかどうかは怪しかった。
「今日はミラ老師が来たんだって?」
マーゴさんが弁当箱を置きながら言った。
「誰から聞いたんですか」
「テオが見てた。あの人、暇なんだから」
テオというのは港の船具屋だ。店の前に椅子を出して座っていることが多い。確かに、工房の前を通るミラ老師を見ていた可能性は十分ある。
「老師は元気そうだったか?」
「元気そうでした」
「あの人ね、昔はすごかったんだよ。ガルトだけじゃなくて、もう一人弟子がいてね。カイって男で」
俺は手が止まった。
「カイ?」
「もう亡くなったんだけどね。星図師だったんだけど、変わった人でさ。なんか、星の話ばっかりしてた。星がおかしい、とか言って、誰も信じなかったって話」
何かが引っかかった。
「星がおかしい、というのは……どういう意味ですか」
「さあ。あたしは詳しく知らないけど、老師が悲しそうにしてたのは覚えてる。カイが死んだとき」
マーゴさんはそこで話題を変えた。
「レンは飯ちゃんと食べてるか? ガルトは自分のことしか気にしないから、あんたが痩せてないか心配でね」
「食べてます」
「そう、ならいい。じゃあ弁当は明日の朝に食べな」
そう言って帰っていった。
夜、記録帳に数値を書き終えてから、俺は「カイ」という名前を別のページに書いた。
星がおかしいと言った人がいた。誰も信じなかった。亡くなった。
それだけだ。詳細は何も知らない。でも記録しておいた。知らないことと、あったことは、別だから。




