第3話 港の漁師
ファーレンの港は朝が早い。
船が出るのは日の出前で、帰ってくるのは昼過ぎだ。だから朝の漁師たちはいつも急いでいる。網を確認して、道具を積んで、仲間と短い言葉を交わして、すぐに船に乗り込む。その中に星図師の入る余地はない——と思っていたが、そうでもないらしかった。
「コルダさん」
父が声をかけた相手は、七十近く見える老人だった。日に焼けた革のような顔で、手がやたらと大きかった。港の桟橋で網の手入れをしていたが、ガルトの声を聞いて顔を上げた。
「おう、ガルトか。来月分持ってきてくれたか」
「ああ。今月の更新分だ」
父が筒状に丸めた星図を渡した。コルダ老人がそれを受け取って、その場で広げた。
俺はその横で立っていた。何をすればいいか分からなくて、ただ見ていた。
「今月はどうだ」
「西の航路が少し変わった。今月の後半から、この星を使え。夜中の三刻から四刻の間だけ有効だ」
コルダ老人は星図の一点を指でなぞりながらうなずいた。文字を読んでいるのではなく、図そのものを読んでいる感じだった。
「分かった。うちの若い衆に教えておく」
「息子を連れてきた。レンという。今年から工房で修行を始めた」
老人の目が俺に向いた。品定めするような目だったが、悪意はなかった。
「ガルトの倅か。目がでかいな」
「よく言われます」
「星図師は目が命だ。でかいのは良いことかもしれん」
そう言って笑った。歯が何本か抜けていた。
そのとき、背後から「じいちゃーん」という声がした。振り返ると、八歳くらいの女の子が桟橋を走ってくるところだった。
「リナ、走るな。海に落ちるぞ」
「落ちないもん」
女の子——リナと呼ばれた——は走るのをやめなかった。コルダ老人の隣に来てから、初めて俺に気づいたように立ち止まった。
「だれ?」
「星図師の見習いだ」
「星図師って、星のひと?」
「そうだ」
リナが俺をじっと見た。
「星って、何個あるの?」
俺は少し考えた。正確な数は誰も知らない。でも前の世界の知識で言えば、肉眼で見える星は数千個ほどだ。
「数えたことはないですけど、何千個かはあると思います」
「全部に名前はある?」
「全部にはないです。名前がついてる星の方が少ない」
「じゃあ名前のない星が消えても、誰も気づかないね」
子どもらしい、単純な発想だった。でも俺は少し黙った。
消えた星のほとんどは、名前のない星かもしれない。誰も気づかないまま、少しずつ。
「気づく人がいれば気づく」と俺は言った。
リナはよく分からなかったのか、「ふーん」と言ってコルダ老人の手を引いた。
老人が星図を筒に戻しながら、俺に聞いてきた。
「星図師の仕事が何か、わかるか?」
試されている感じがした。でも嫌な感じじゃなかった。
「空を記録して、図にまとめることだと思います」
「それは手段だ。何のためにやるか、だよ」
俺は少し考えた。
「……漁師さんたちが、夜の海で迷わないためですか」
「それだけじゃない」
老人は海の方を向いた。朝の光が水面に反射していた。
「俺は五十年、この海で漁をしてきた。若い頃、一度だけ嵐に巻き込まれたことがある。夜で、雲が出ていて、星が見えなかった。どっちに岸があるか分からなくて、仲間が二人死んだ」
俺は何も言えなかった。
「それから俺は、星図師さんが出す図を、毎月欠かさず買っている。ガルトの親父が死んで、ガルトが継いで、もう三十年の付き合いだ。この星図があるから、俺は安心して海に出られる。若い衆も安心して漕ぎ出せる」
老人がこちらを向いた。
「星図師さんがいてくれるから、俺たちは生きて帰れる。そういう仕事だ」
帰り道、父と並んで歩いた。
朝の港は人が多くてうるさい。でも父と俺の間には静寂があった。いつものことだが、今日は少し重さが違った。
「コルダさんの話、聞いていたか」
「はい」
「あれが全部だ」
父はそれ以上言わなかった。
俺も何も言わなかった。でも頭の中でコルダ老人の言葉が繰り返されていた。「星図師さんがいてくれるから、俺たちは生きて帰れる」。
前の世界で俺がやっていた仕事は、誰かの命に繋がっていただろうか。データを解析して、論文を書いて、誰かが安全に海に出るために役立てたか。正直、よく分からなかった。間接的には貢献していたかもしれないが、あんなふうに顔の見える誰かに「あなたのおかげで生きて帰れる」と言われたことはなかった。
それが良いとか悪いとかじゃなく、ただ違う、と思った。
空を記録することと、命が繋がっている。この世界では、そういう仕組みになっている。
だとすれば——星が消えているということは。
そこまで考えて、俺は考えを止めた。結論を出すには情報が足りない。今は記録を続けることだ。毎晩、数値を、方角を。
港の方から潮の匂いがした。
夜、観測窓から夕明け星を確認した。
昨日より、また少し暗い。
記録帳に数値を書き足した。今日で十一日目。一定のペースで落ちている。誤差ではなく、傾向だ。
コルダ老人の言葉を思い出した。「この星図がなければ、仲間が死んでいた」。
夕明け星は漁師たちの道標だ。あの星が消えたとき、最初に困るのは港の人間たちだ。夜の海で、帰り道を示す星が消えたとき、何が起きるか。
俺はその可能性を記録帳の余白に小さく書いた。推測だから、別の欄に。事実と推測は分けておかないといけない。前の世界でも、そこを混ぜると報告書がめちゃくちゃになるから嫌というほど学んだ。
書いてから、鞄にしまった。
今日の仕事は終わりだ。でも記録は続く。




