表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星図師は空の欠けを知っている  作者: ごま
第一部:工房の空

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/76

第2話 星紙と星墨

 翌朝、工房に先客がいた。

 階段を降りたら、写図室の机の前に見慣れない背中があった。俺より頭一つ分背が高くて、背筋が真っ直ぐで、動作に無駄がない。筆を持って何かを写している。俺が入ってきた気配に気づいているはずなのに、振り返らなかった。

「ソーラさん、今日も早いな」

 父がそう声をかけた。

「お早うございます、師匠。昨日の写図を仕上げてしまいたくて」

 ソーラというのが、その人の名前だった。ガルト工房の先輩見習いで、十七歳。俺より十歳上だ。俺が工房に生まれた頃にはもう修行を始めていたらしいから、付き合いは長い。でも言葉を交わしたことはあまりなかった。

 子どもの俺に用はない、という感じではなかった。ただ、仕事中は仕事だけを見る人だった。それはそれで、俺は嫌いじゃなかった。

「レン」

 父が俺を呼んだ。

「今日からソーラと一緒に素材の扱いを習え。俺は午前中は客と出る」

 それだけ言って、ガルトは出て行った。


 ソーラがようやく振り返った。

 切れ長の目で、こちらをまっすぐ見てくる。品定め、というほど冷たくはないが、値踏みしているのは分かった。まあ仕方ない。師匠の息子が突然「教えてください」と現れたのだから。

「星紙と星墨は触ったことある?」

「ないです」

「じゃあ一から。ついてきて」

 素材庫は工房の奥にある小さな部屋だった。棚に引き出しが並んでいて、ソーラが迷いなく一つを引いた。中に紙が束になって入っていた。

 見た目は普通の紙と変わらない。でも触った瞬間、少し違うと分かった。表面がわずかにざらついていて、光の当て方によって微かに光る。

「これが星紙。霜草という植物から作る。夜露を吸い込む性質があって、夜空にかざすと星の光を記録できる」

「星の光を……記録?」

「正確に言うと、星の位置情報を紙が吸い込む。肉眼では分からないくらい微細な反応だけど、星墨で描いた線がその反応に引き寄せられる。それで正確な星図ができる」

 面白い仕組みだと思った。前の世界のCCDセンサーとは全然違う原理だが、やっていることは似ている。光を受け取って、位置情報に変換する。

「星墨はこっち」

 別の引き出しに、墨のような黒いものが入っていた。普通の墨より少し重い感じがする。

「方位鉄という磁性鉱物を溶かしたもの。これで描いた線は、天の方角に応じて微妙に滲む。その滲みを読むのが星図師の基本技術の一つ」

「滲みを読む」

「経験が必要。最初は全部同じに見えると思う」

 そう言いながら、ソーラは机に星紙を広げて筆を持った。ゆっくりと一本、線を引いた。

 引いた線の端が、ほんの少し北側に傾いていた。肉眼で見てもかろうじて分かるくらいの微差だ。

「これが北。滲みの方向を読むことで、方角を確定する。これができないと正確な星図は描けない」

 俺は線を見た。

 見た瞬間、分かった。滲みの方向だけじゃなく、角度が0.3度ほど東にずれている。そこまで気にする必要があるのかは分からないが、見えてしまったものは仕方ない。

「……この線、少し東にずれてませんか」

 ソーラの手が止まった。

「どこが」

「端の滲みが。0.何度かは分かりませんけど、真北より少し」

 ソーラはしばらく線を見ていた。それから定規のような道具を取り出して確認した。

「……ずれてる。0.2度ほど」

 声のトーンが少し変わった。感情的ではなかったが、さっきより注意深い目になった。

「なんで分かったの」

「分かりました、としか言えなくて」

「目が良いわけじゃないと思う。こんな細かいずれは視力の問題じゃない」

 俺は何も言わなかった。説明できないから言わなかった。


 午前中いっぱい、素材の説明を受けた。

 星紙の等級の違い、星墨の濃度の調整、筆の種類と用途。ソーラの説明は正確で、無駄がなかった。教えることに慣れているというより、自分の中で完全に整理されている、という感じだった。

 昼近くになって、練習用の星紙に筆を持たせてもらった。

「まず一本、引いてみて。どの方向でもいい」

 俺は筆を持った。墨を含ませて、紙の上に線を引いた。

 うまくはなかった。手が慣れていなくて、線が少し震えた。でも滲みは出た。北北西の方向に。

「……また分かった?」

「何が」

「自分で引いた線の方向が」

「北北西だと思います」

 ソーラが確認した。黙っていた。

「正確には北西23度。ほぼ合ってる」

 褒めているわけではなかった。確認している、という感じだった。

「練習で描いた線でも読めるの?」

「読める、というか……見えてしまう感じです」

「才能と言っていいのか分からないけど」

 ソーラはそこで少し考えてから続けた。

「師匠の息子だから、というわけじゃないんだね」

「どういう意味ですか」

「師匠の子どもだから優秀なのかと思ってた。でもこれは違う種類の話だ」

 評価でも批判でもなく、ただ観察している言い方だった。俺はその言い方が嫌いじゃなかった。感情ではなく事実で話す人だと分かったから。


 昼飯を食べてから、父が戻ってきた。

「どうだった」

 ソーラが答えた。

「素材の特性は説明しました。飲み込みは早い方だと思います」

「そうか」

 それだけだった。父は午後の仕事に入った。ソーラも自分の写図に戻った。

 俺は今日もらった練習用の星紙を手に持って、窓の外を見た。昼間の空に星は見えない。見えないけど、どこかにある。

 夕明け星も、今夜またそこにあるはずだ。昨日より、少し暗くなって。

 俺は部屋の隅に置いてある自分の鞄を確認した。小さな記録帳が入っている。昨夜の数値を書いておいた。今夜も書く。明日も書く。

 誰かに見せるつもりはまだなかった。でも、書かないという選択肢はもうなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ