第2話 星紙と星墨
翌朝、工房に先客がいた。
階段を降りたら、写図室の机の前に見慣れない背中があった。俺より頭一つ分背が高くて、背筋が真っ直ぐで、動作に無駄がない。筆を持って何かを写している。俺が入ってきた気配に気づいているはずなのに、振り返らなかった。
「ソーラさん、今日も早いな」
父がそう声をかけた。
「お早うございます、師匠。昨日の写図を仕上げてしまいたくて」
ソーラというのが、その人の名前だった。ガルト工房の先輩見習いで、十七歳。俺より十歳上だ。俺が工房に生まれた頃にはもう修行を始めていたらしいから、付き合いは長い。でも言葉を交わしたことはあまりなかった。
子どもの俺に用はない、という感じではなかった。ただ、仕事中は仕事だけを見る人だった。それはそれで、俺は嫌いじゃなかった。
「レン」
父が俺を呼んだ。
「今日からソーラと一緒に素材の扱いを習え。俺は午前中は客と出る」
それだけ言って、ガルトは出て行った。
ソーラがようやく振り返った。
切れ長の目で、こちらをまっすぐ見てくる。品定め、というほど冷たくはないが、値踏みしているのは分かった。まあ仕方ない。師匠の息子が突然「教えてください」と現れたのだから。
「星紙と星墨は触ったことある?」
「ないです」
「じゃあ一から。ついてきて」
素材庫は工房の奥にある小さな部屋だった。棚に引き出しが並んでいて、ソーラが迷いなく一つを引いた。中に紙が束になって入っていた。
見た目は普通の紙と変わらない。でも触った瞬間、少し違うと分かった。表面がわずかにざらついていて、光の当て方によって微かに光る。
「これが星紙。霜草という植物から作る。夜露を吸い込む性質があって、夜空にかざすと星の光を記録できる」
「星の光を……記録?」
「正確に言うと、星の位置情報を紙が吸い込む。肉眼では分からないくらい微細な反応だけど、星墨で描いた線がその反応に引き寄せられる。それで正確な星図ができる」
面白い仕組みだと思った。前の世界のCCDセンサーとは全然違う原理だが、やっていることは似ている。光を受け取って、位置情報に変換する。
「星墨はこっち」
別の引き出しに、墨のような黒いものが入っていた。普通の墨より少し重い感じがする。
「方位鉄という磁性鉱物を溶かしたもの。これで描いた線は、天の方角に応じて微妙に滲む。その滲みを読むのが星図師の基本技術の一つ」
「滲みを読む」
「経験が必要。最初は全部同じに見えると思う」
そう言いながら、ソーラは机に星紙を広げて筆を持った。ゆっくりと一本、線を引いた。
引いた線の端が、ほんの少し北側に傾いていた。肉眼で見てもかろうじて分かるくらいの微差だ。
「これが北。滲みの方向を読むことで、方角を確定する。これができないと正確な星図は描けない」
俺は線を見た。
見た瞬間、分かった。滲みの方向だけじゃなく、角度が0.3度ほど東にずれている。そこまで気にする必要があるのかは分からないが、見えてしまったものは仕方ない。
「……この線、少し東にずれてませんか」
ソーラの手が止まった。
「どこが」
「端の滲みが。0.何度かは分かりませんけど、真北より少し」
ソーラはしばらく線を見ていた。それから定規のような道具を取り出して確認した。
「……ずれてる。0.2度ほど」
声のトーンが少し変わった。感情的ではなかったが、さっきより注意深い目になった。
「なんで分かったの」
「分かりました、としか言えなくて」
「目が良いわけじゃないと思う。こんな細かいずれは視力の問題じゃない」
俺は何も言わなかった。説明できないから言わなかった。
午前中いっぱい、素材の説明を受けた。
星紙の等級の違い、星墨の濃度の調整、筆の種類と用途。ソーラの説明は正確で、無駄がなかった。教えることに慣れているというより、自分の中で完全に整理されている、という感じだった。
昼近くになって、練習用の星紙に筆を持たせてもらった。
「まず一本、引いてみて。どの方向でもいい」
俺は筆を持った。墨を含ませて、紙の上に線を引いた。
うまくはなかった。手が慣れていなくて、線が少し震えた。でも滲みは出た。北北西の方向に。
「……また分かった?」
「何が」
「自分で引いた線の方向が」
「北北西だと思います」
ソーラが確認した。黙っていた。
「正確には北西23度。ほぼ合ってる」
褒めているわけではなかった。確認している、という感じだった。
「練習で描いた線でも読めるの?」
「読める、というか……見えてしまう感じです」
「才能と言っていいのか分からないけど」
ソーラはそこで少し考えてから続けた。
「師匠の息子だから、というわけじゃないんだね」
「どういう意味ですか」
「師匠の子どもだから優秀なのかと思ってた。でもこれは違う種類の話だ」
評価でも批判でもなく、ただ観察している言い方だった。俺はその言い方が嫌いじゃなかった。感情ではなく事実で話す人だと分かったから。
昼飯を食べてから、父が戻ってきた。
「どうだった」
ソーラが答えた。
「素材の特性は説明しました。飲み込みは早い方だと思います」
「そうか」
それだけだった。父は午後の仕事に入った。ソーラも自分の写図に戻った。
俺は今日もらった練習用の星紙を手に持って、窓の外を見た。昼間の空に星は見えない。見えないけど、どこかにある。
夕明け星も、今夜またそこにあるはずだ。昨日より、少し暗くなって。
俺は部屋の隅に置いてある自分の鞄を確認した。小さな記録帳が入っている。昨夜の数値を書いておいた。今夜も書く。明日も書く。
誰かに見せるつもりはまだなかった。でも、書かないという選択肢はもうなかった。




