表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星図師は空の欠けを知っている  作者: ごま
第一部:工房の空

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/76

第1話 父の工房

 俺は三十二歳で死んだ。

 死に方は間抜けだった。台風の夜、天文台の観測塔で足を滑らせて転落。発見されたのは翌朝。遺書もなければ、後悔の言葉を誰かに伝える暇もなかった。

 ただ、落ちながら一つだけ思ったことがある。

 ——あの星のデータ、誰かに引き継いでほしかったな。

 我ながら、どうかしていると思う。死の直前に心配することがそれか、という話だ。


 俺の名前は並木蓮。国立天文台のデータ解析研究員だった。

 仕事の内容を一言で言うと、星を数字に変換することだ。望遠鏡で撮った画像からデータを引き出して、整理して、分析する。ロマンのある職業に聞こえるかもしれないが、実際のところ八割は地味なデスクワークで、残り二割が機材のメンテナンスだった。星を見て感動する時間というのは、思っているより少ない。

 恋人はいなかった。友人も、いないわけじゃないが多くはなかった。休日は天文書を読むか、近所を散歩するか、安いコーヒーを飲みながら積んだままの論文を眺めるかだった。充実しているとは言い難いが、不満もそんなになかった。そういう人間だった。

 夜空が好きかと聞かれると、正直よく分からなかった。好きというより、気になる、という感覚に近い。空を見ると、誤差が気になる。数値が気になる。昨日と今日で何かが違うと感じると、確認せずにはいられない。天文台に就職したのも、そういう職業病じみた性格が向いていると思ったからだ。

 感動とかロマンとかは、正直あまり得意じゃなかった。


 死んだ夜は、台風だった。

 午後から風が強くなって、同僚たちは早々に帰り始めた。「並木さんも早く帰った方がいいですよ」と後輩に言われた。「もう少しだけ」と答えた。観測装置のケーブル固定が、なんとなく気になっていたからだ。

 本当は、もう一つ理由があった。

 ある星のデータが、一週間ほど前から気になっていた。

 西の空にある小さな星の輝度が、少しずつ落ちていた。日に0.03等から0.05等ほど。一日単位では誤差の範囲に見える。でも七日分を並べると、明らかに傾向がある。自然な変動ではない感じがした。

 誰かに話すには根拠が薄すぎる。報告書に書くには確信がなさすぎる。でも見て見ぬふりもできなくて、俺は毎晩こっそりデータを溜め込んでいた。

 その夜も、嵐の隙間からデータを確認しようとしていた。

 観測塔の外に出たとき、雨が横から叩きつけてきた。モニターを確認して、ケーブルを確認して、さあ戻ろうとしたとき——足元が滑った。

 濡れた鉄の足場だった。

 体が傾いて、手が何かを掴もうとして、届かなかった。落ちながら俺は冷静だった。これはまずい、と思った。次に、データのバックアップはとってあるか、と思った。バックアップはとってある、でも解析が途中だ、と思った。

 そこで、終わりだった。


 次に気づいたとき、俺は赤ん坊だった。

 最初は何も分からなかった。体が動かない。言葉が出ない。視界がぼやけている。泣いたら誰かに抱き上げられた。その人の顔が、ぼんやりと見えた。

 ——俺の親じゃない。

 でも俺を見て笑っているから、この世界での親なのだろうと思った。

 そういうことか、と理解するのにしばらくかかった。死んで、別の世界に生まれ直した。転生というやつだ。三十二年間、そんなことが起きるとは一度も思っていなかったが、起きてしまったものは仕方がない。

 赤ん坊の体は不便だった。眠くなくても眠くなる。腹が減ってもうまく伝えられない。自分の意思で動けない期間が、思っていたより長く続いた。

 その間、俺にできることは観察だけだった。

 天井の木の模様。窓から入る光の角度。人の声の聞こえ方。新しい世界の細々としたことを、眺めて、覚えて、記録していった。体は赤ん坊でも、頭の中だけは三十二年分の記憶があった。やることが観察しかないなら、徹底的にやるしかない。

 そうしているうちに、この世界のことが少しずつわかってきた。


 七年が経った。

 俺の名前はレンという。父親はガルトといって、星を読む職人だ。星の位置を記録して図にまとめ、それを漁師や旅人に売る。星図師と呼ばれる仕事で、この世界では昔からある職業らしい。

 母親はいない。俺が生まれる前に亡くなったそうで、父は一度もその話をしない。

 ファーレンという港町の工房で、俺たち二人は暮らしていた。

 父は無口だった。必要なことしか言わない。朝は「顔を洗え」、昼は「飯だ」、夜は「寝ろ」。感情を表に出すことがほとんどなく、褒めることも滅多になかった。怒ることも、実はあまりなかった。ただ静かに、毎日仕事をしていた。

 俺はその背中を見て育った。

 嫌いではなかった。不器用な人間だとは思ったが、仕事への誠実さだけは本物だった。毎朝夜明け前から机に向かって、日が暮れても筆を置かない。俺の前世の仕事と、やっていることはそんなに変わらない。数値を読んで、記録して、図にする。ただ道具が違うだけだ。

 だから俺はこの仕事が嫌いじゃなかった。いつかやってみたいと思っていた。

 そして七歳になった秋の夜、父が初めて観測塔に連れて行ってくれた。


 塔の天井を開けると、星が見えた。

 ファーレンは霧が少ない。秋の空は特に澄んでいて、星が多かった。こんなに多いのかと、七年いても毎回思う。前の世界でも夜空は見ていたが、観測機器越しだった。こうして肉眼で、直接、体に風を受けながら見るのは感覚が違った。

 父は無言で空を見ていた。俺も黙って見ていた。

 西の空の低いところに、小さな星がある。漁師が「夕明け星」と呼んでいる星だ。港で会う老漁師から「あれが見えたら帰港の合図だ」と教えてもらった星。

 その星を見た瞬間、俺は気づいた。

 ——暗い。

 昨日より暗い。いや、昨日だけじゃない。この一週間、毎晩少しずつ暗くなっていた。俺は毎夜塔には上がれないから窓から確認していたが、確実に数値が落ちていた。前の世界の感覚で言うと、0.2から0.3等ほど。

 誤差じゃない。こういう変化は知っている。

「父さん」

「なんだ」

「あの星——夕明け星、最近暗くなってないですか」

 父がゆっくり西の空を見た。しばらく黙っていた。

「暗くない」

「でも俺、一週間ずっと——」

「レン」

 静かな声だった。怒っているわけじゃない。それがかえって、終わりの感じがした。

「星は変わらない。それが前提だ」

 それだけ言って、父は観測に戻った。

 俺は何も言わなかった。

 言っても無駄だと分かったからじゃない。父の言葉を聞きながら、俺は別のことを考えていた。

 ——前の世界でも、俺は同じことをした。

 気になるデータがあって、でも確信が持てなくて、誰にも言わなかった。報告書に書けなかった。そのまま死んだ。

 今回は同じ失敗をするつもりはなかった。

 確信がなくてもいい。信じてもらえなくてもいい。記録だけはする。毎晩、数値を、日付を、方角を。消えかけているなら、消える前に書き残す。それだけのことだ。

 俺はポケットの中の小さなメモ帳を握った。

 今夜の夕明け星の輝度を、翌朝一番に書き留めようと思いながら、父の隣で黙って空を見続けた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ