第1話 父の工房
俺は三十二歳で死んだ。
死に方は間抜けだった。台風の夜、天文台の観測塔で足を滑らせて転落。発見されたのは翌朝。遺書もなければ、後悔の言葉を誰かに伝える暇もなかった。
ただ、落ちながら一つだけ思ったことがある。
——あの星のデータ、誰かに引き継いでほしかったな。
我ながら、どうかしていると思う。死の直前に心配することがそれか、という話だ。
俺の名前は並木蓮。国立天文台のデータ解析研究員だった。
仕事の内容を一言で言うと、星を数字に変換することだ。望遠鏡で撮った画像からデータを引き出して、整理して、分析する。ロマンのある職業に聞こえるかもしれないが、実際のところ八割は地味なデスクワークで、残り二割が機材のメンテナンスだった。星を見て感動する時間というのは、思っているより少ない。
恋人はいなかった。友人も、いないわけじゃないが多くはなかった。休日は天文書を読むか、近所を散歩するか、安いコーヒーを飲みながら積んだままの論文を眺めるかだった。充実しているとは言い難いが、不満もそんなになかった。そういう人間だった。
夜空が好きかと聞かれると、正直よく分からなかった。好きというより、気になる、という感覚に近い。空を見ると、誤差が気になる。数値が気になる。昨日と今日で何かが違うと感じると、確認せずにはいられない。天文台に就職したのも、そういう職業病じみた性格が向いていると思ったからだ。
感動とかロマンとかは、正直あまり得意じゃなかった。
死んだ夜は、台風だった。
午後から風が強くなって、同僚たちは早々に帰り始めた。「並木さんも早く帰った方がいいですよ」と後輩に言われた。「もう少しだけ」と答えた。観測装置のケーブル固定が、なんとなく気になっていたからだ。
本当は、もう一つ理由があった。
ある星のデータが、一週間ほど前から気になっていた。
西の空にある小さな星の輝度が、少しずつ落ちていた。日に0.03等から0.05等ほど。一日単位では誤差の範囲に見える。でも七日分を並べると、明らかに傾向がある。自然な変動ではない感じがした。
誰かに話すには根拠が薄すぎる。報告書に書くには確信がなさすぎる。でも見て見ぬふりもできなくて、俺は毎晩こっそりデータを溜め込んでいた。
その夜も、嵐の隙間からデータを確認しようとしていた。
観測塔の外に出たとき、雨が横から叩きつけてきた。モニターを確認して、ケーブルを確認して、さあ戻ろうとしたとき——足元が滑った。
濡れた鉄の足場だった。
体が傾いて、手が何かを掴もうとして、届かなかった。落ちながら俺は冷静だった。これはまずい、と思った。次に、データのバックアップはとってあるか、と思った。バックアップはとってある、でも解析が途中だ、と思った。
そこで、終わりだった。
次に気づいたとき、俺は赤ん坊だった。
最初は何も分からなかった。体が動かない。言葉が出ない。視界がぼやけている。泣いたら誰かに抱き上げられた。その人の顔が、ぼんやりと見えた。
——俺の親じゃない。
でも俺を見て笑っているから、この世界での親なのだろうと思った。
そういうことか、と理解するのにしばらくかかった。死んで、別の世界に生まれ直した。転生というやつだ。三十二年間、そんなことが起きるとは一度も思っていなかったが、起きてしまったものは仕方がない。
赤ん坊の体は不便だった。眠くなくても眠くなる。腹が減ってもうまく伝えられない。自分の意思で動けない期間が、思っていたより長く続いた。
その間、俺にできることは観察だけだった。
天井の木の模様。窓から入る光の角度。人の声の聞こえ方。新しい世界の細々としたことを、眺めて、覚えて、記録していった。体は赤ん坊でも、頭の中だけは三十二年分の記憶があった。やることが観察しかないなら、徹底的にやるしかない。
そうしているうちに、この世界のことが少しずつわかってきた。
七年が経った。
俺の名前はレンという。父親はガルトといって、星を読む職人だ。星の位置を記録して図にまとめ、それを漁師や旅人に売る。星図師と呼ばれる仕事で、この世界では昔からある職業らしい。
母親はいない。俺が生まれる前に亡くなったそうで、父は一度もその話をしない。
ファーレンという港町の工房で、俺たち二人は暮らしていた。
父は無口だった。必要なことしか言わない。朝は「顔を洗え」、昼は「飯だ」、夜は「寝ろ」。感情を表に出すことがほとんどなく、褒めることも滅多になかった。怒ることも、実はあまりなかった。ただ静かに、毎日仕事をしていた。
俺はその背中を見て育った。
嫌いではなかった。不器用な人間だとは思ったが、仕事への誠実さだけは本物だった。毎朝夜明け前から机に向かって、日が暮れても筆を置かない。俺の前世の仕事と、やっていることはそんなに変わらない。数値を読んで、記録して、図にする。ただ道具が違うだけだ。
だから俺はこの仕事が嫌いじゃなかった。いつかやってみたいと思っていた。
そして七歳になった秋の夜、父が初めて観測塔に連れて行ってくれた。
塔の天井を開けると、星が見えた。
ファーレンは霧が少ない。秋の空は特に澄んでいて、星が多かった。こんなに多いのかと、七年いても毎回思う。前の世界でも夜空は見ていたが、観測機器越しだった。こうして肉眼で、直接、体に風を受けながら見るのは感覚が違った。
父は無言で空を見ていた。俺も黙って見ていた。
西の空の低いところに、小さな星がある。漁師が「夕明け星」と呼んでいる星だ。港で会う老漁師から「あれが見えたら帰港の合図だ」と教えてもらった星。
その星を見た瞬間、俺は気づいた。
——暗い。
昨日より暗い。いや、昨日だけじゃない。この一週間、毎晩少しずつ暗くなっていた。俺は毎夜塔には上がれないから窓から確認していたが、確実に数値が落ちていた。前の世界の感覚で言うと、0.2から0.3等ほど。
誤差じゃない。こういう変化は知っている。
「父さん」
「なんだ」
「あの星——夕明け星、最近暗くなってないですか」
父がゆっくり西の空を見た。しばらく黙っていた。
「暗くない」
「でも俺、一週間ずっと——」
「レン」
静かな声だった。怒っているわけじゃない。それがかえって、終わりの感じがした。
「星は変わらない。それが前提だ」
それだけ言って、父は観測に戻った。
俺は何も言わなかった。
言っても無駄だと分かったからじゃない。父の言葉を聞きながら、俺は別のことを考えていた。
——前の世界でも、俺は同じことをした。
気になるデータがあって、でも確信が持てなくて、誰にも言わなかった。報告書に書けなかった。そのまま死んだ。
今回は同じ失敗をするつもりはなかった。
確信がなくてもいい。信じてもらえなくてもいい。記録だけはする。毎晩、数値を、日付を、方角を。消えかけているなら、消える前に書き残す。それだけのことだ。
俺はポケットの中の小さなメモ帳を握った。
今夜の夕明け星の輝度を、翌朝一番に書き留めようと思いながら、父の隣で黙って空を見続けた。




