第31話 出発の朝
ファーレンを出たのは、秋の初めだった。
十一歳になっていた。見習いから三等師になって、二年が過ぎていた。父が「もう少し」と言い続けた二年間だったが、それは無駄ではなかった。実務を積んで、俺の観測は以前より速く、精度が上がった。ソーラから手順化された確認方法を教わった。星図の描き方も、商業的な星図と記録用の星図の違いも学んだ。
出発の朝、工房の前に全員が来た。
ガルト工房の関係者で来なかったのはソーラだけだった。ソーラは朝の仕事があると言って工房に残っていた。でも出発する前に一度だけ顔を出した。
「記録は続けなさい。どこにいても」
「分かっています」
「あなたのやり方で。誰かに合わせなくていい」
「はい」
ソーラはそれだけ言って工房に戻った。
コルダ老人が来た。リナも一緒だった。
「気をつけろよ」
「はい」
「飯はちゃんと食え。星図師が旅先で倒れたって話は聞いたことある」
「食べます」
リナが俺の手を握った。
「また来る?」
「また来ます」
「絶対?」
「絶対」
リナが少し考えた。
「じゃあ帰ってきたら、名前のない星のこと全部教えて」
「全部は多すぎますが、できるだけ教えます」
マーゴさんが弁当を持ってきた。
「旅に出るなら腹が減っては戦えないって言うでしょ」
「ありがとうございます」
「気をつけてね。一人で行くなんて心配だけど、あんたはそういう子だしね」
「そういう子というのは」
「ほっといても行く子」
マーゴさんが笑った。俺も笑った。
テオが来た。
「星図師が旅に出ることはあるが、見習いが一人で出るのは珍しい」
「三等師です、もう」
「そうだな。失礼した」
テオが真顔になって言った。
「各地で道具が要るようになったら、港の船具屋のコネを使え。俺は各地の同業者と繋がりがある。少し融通が利く」
「ありがとうございます」
「困ったときだけでいい。普段は自分でやれ」
テオらしかった。
ベルが最後まで残っていた。
「行ってしまうんですね」
「行ってきます」
「いつ帰りますか」
「分かりません。でも帰ります」
「帰ったとき、俺はまだここにいると思います」
「ベルの感覚記録を続けておいてください。月に一度、俺に手紙で送ってくれると助かります」
「分かりました。俺の「感じること」が役に立つんですね」
「数値じゃ分からないことが、あなたには分かる。それは大事な記録です」
ベルが少し照れた顔をした。
「行ってらっしゃい、レン」
「行ってきます」
父が工房の前に立っていた。
俺が近づくと、少し前に出てきた。
「行くか」
「はい」
「一人で大丈夫か」
「大丈夫です」
父が少し黙った。
「……道中、危ないと思ったら引き返せ」
「はい」
「記録帳を失うな。他は失っても、記録帳だけは」
「はい」
「飯を食え。コルダ老人も同じことを言ったか」
「言いました」
「そうか」
父がそれ以上言わなかった。俺も言わなかった。
父と俺の間には、言葉より先に理解がある。そういう関係になっていた。
坂を下りた。
振り返ると、全員が見えた。
コルダ老人、リナ、マーゴさん、テオ、ベル、父。工房の前に並んでいた。
俺は一度頭を下げた。
それから前を向いた。
港から東へ向かう道が見えた。初めて一人で踏み出す道だった。
記録帳は鞄の中にある。ミラ老師からもらった帳面も入っている。インクとペンも入っている。
前の世界でも、フィールドワークに出るときはいつも似た緊張があった。でもあのときは一人ではなかった。今は一人だ。
それでも、記録することは変わらない。




