第28話 母の記録
母の話を父から聞いたのは、七年間で初めてのことだった。
きっかけは些細なことだった。写図室の棚を整理していたとき、俺は奥の方から古い手帳を見つけた。表紙は茶色く変色していて、端が少し擦れていた。
「ライラ」と書いてあった。
俺の母の名前だ。
「父さん、これは」
父を呼んだ。ガルトが来て手帳を見た。
一瞬、表情が変わった。それから元に戻った。
「……どこにあった」
「棚の一番奥です」
「そうか」
父が手帳を受け取った。しばらく見ていた。
「見てもいいですか」
「……母親の手帳だ」
「知っています。見てもいいですか」
父が黙った。
「見てもいい」
手帳を受け取って、最初のページを開いた。
母の字は、父より柔らかかった。日付がついていて、日記のような形式だった。最初の日付から最後の日付まで、何年分もある。
俺はゆっくり読んだ。
母は星を見るのが好きだったらしかった。日記の中に星の記録が出てくる。どの方角に何が見えた、今夜は特に明るかった、あの星の位置が少し変わった気がする。
星図師ではなかったが、星を見ていた。
中ほどのページで止まった。
「父さん」
「なんだ」
「母は、星が消えていることに気づいていたみたいです」
ガルトが俺を見た。
「……読んでいいか」
「どうぞ」
父が手帳を受け取った。中ほどのページを読んだ。
そこには書いてあった。「夕方、西の空にある星が、去年より暗い気がする。気のせいかもしれないが、気になった。ガルトに聞いたら、そんなこともあると言っていた。でも私はもう少し気にしてみようと思う」
父が長い間手帳を見ていた。
俺は黙っていた。
「……俺は「そんなこともある」と言った」
「はい」
「気のせいにした」
「はい」
「あのとき——お前が生まれる前の話だ。ライラが星が変だと言っていた。でも俺は……怖かった。ネベルにいたとき、同じことを感じて、誰にも信じてもらえなかった。それで、もう気にしないと決めていた」
父が手帳を閉じた。
「だから「そんなこともある」と言って、終わりにした」
「でも母は続けて記録していたんですね」
「そうらしい。俺は知らなかった」
「読みましたか、この手帳を」
「読んでいなかった。ライラが亡くなってから、ずっとそこに入れたままにしていた」
俺はしばらく考えた。
「読んでもいいですか。全部」
「構わん」
「記録帳に書かせてもらってもいいですか。母の気づきを」
父が少し長く黙った。
「……ああ」
その夜、手帳を読んだ。
母は几帳面な人だったらしかった。日記の形式は一定で、日付、天気、その日に見た星。星の記録は素人目のものだが、変化への気づき方は鋭かった。
俺が今やっていることと、やり方は違うが、やっていることは同じだった。
消えていく星を、記録していた。
手帳の最後の方の日付は、母が亡くなる数ヶ月前だった。最後の記録は短かった。
「今夜は曇り。星が見えない。でも、見えなくても空はある。明日また見る」
次のページは空白だった。
記録帳に書いた。
母・ライラの手帳に、星の変化への気づきが複数記録されていた。素人の観察だが、方向と時期の記録がある。
父は「そんなこともある」と言って母の気づきを流したことを後悔しているように見えた。
俺は補足欄に書いた。
「気づいた人間は何人もいた。コルダ老人、アベル、父、母、ミラ老師。でも誰も一人では記録を積み上げられなかった。俺は今積み上げている」
それから、一行だけ付け加えた。
「俺が記録し続けることで、気づいていた全員の気づきが無駄にならないかもしれない」
父がいつもより遅くまで台所にいた。
俺が水を飲みに行ったとき、父は台所のテーブルで手帳を読んでいた。
声をかけるのをやめた。
父には、一人で読む時間が必要だと思った。




