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星図師は空の欠けを知っている  作者: ごま
第一部:工房の空

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第16話 ミラの保管庫

 ミラ老師の家には、入るたびに驚く場所がある。

 家自体はそんなに広くない。港から少し上った丘の中腹で、外から見ると普通の古い民家だ。でも中に入ると、壁が全部棚になっている。棚には星図の束が入った筒が並んでいて、床に積まれた紙の山が廊下を狭くしている。

 ミラ老師はその中で、いつも何かを読んでいる。

「来たか、レン」

「ベルも連れてきていいですか。工房で待たせています」

「別に構わん。入れ」

 俺はベルを呼んだ。ベルは入り口で少し立ち止まった。

「すごい量の紙」

「そうです」

「全部星図ですか」

「だいたい」

「いつから集めてるんですか」

「四十年以上」

 ベルが入り口のままで数秒固まっていた。俺も最初はそういう顔をした記憶がある。


 今日来たのは、記録帳の件で話を聞きたいことがあったからだ。

 二件目の星の低下を報告すると、老師は「座れ」と言った。

「南西のどのあたりだ」

 俺は方角と位置を説明した。老師が黙って聞いた。

「……記録はある」

「どこにですか」

 老師が立ち上がった。ゆっくりとした動きで、棚の奥の方に手を伸ばした。ミラ老師は背が低いが、棚の場所はすべて把握しているらしく、迷いなく筒を抜いた。

「百二十年前の記録だ」

 広げた星図は、黄ばんでいた。端が茶色くなっていて、折れた跡が細かく入っている。でも線は読めた。ファーレンから見える空を描いた、古い星図だった。

「そこを見ろ」

 南西の方向を指差された。

 小さな点が、記してあった。俺の記録にある星より、少し大きく書かれている。

「これが……」

「百二十年前には、そこにはっきり見える星があった。今はない」

 俺はしばらく老師を見た。

「消えたんですか」

「記録から消えた。私が師匠に習ったときは、もうなかった。師匠の師匠の記録にはある」


 ベルがそっと星図を覗き込んだ。

「じゃあ今俺が感じてる欠けってのは、もっと前から続いてたってことですか」

「そうなる」

「どのくらい前から」

「少なくとも百年は続いている。それ以前は記録がない」

 ベルが「百年」と繰り返した。それから少し黙った。感覚的なことを言う子だが、こういうとき黙れるのは落ち着いている証拠だと思った。

 俺は記録帳を出した。

「百二十年前の記録と、俺の記録を照合していいですか」

「好きにしろ」

 老師が星図を俺の前に置いた。俺は自分の記録帳を開いて、方角と位置を確認した。場所はほぼ一致する。百二十年前に明るかった星が、今は俺の記録帳で67まで落ちている。その前の時代にも、そういう星があった。

 消え方には時間がかかる。でも、確実に消えていく。


 そのとき、外から声がした。

「ごめんください! ここ、ミラ老師のお宅ですか?」

 大きな声だった。元気のいい声で、戸を三回ノックした音がした。

 老師が眉を動かした。

「誰だ」

「知りません」

 俺が出た。戸を開けると、見知らぬ若い男が立っていた。

 年は十七か十八くらい。体つきはしっかりしていて、大きな荷物を背負っている。明るい茶色の髪が跳ねていて、服にいくつか旅の汚れがついていた。俺を見るなり目を丸くした。

「え、子ども?」

「見習いです」

「ミラ老師のとこの?」

「違います。ガルト工房の」

 男は「ガルト工房か!」と声を上げた。なぜ喜んでいるのか分からなかったが、全身から元気が出ていた。

「ちょうどよかった! ミラ老師に会いたくて、ガルト工房に先に寄ったら来てるって言われて追いかけてきたんだ。俺、ロットっていう。旅の星図師見習い。よろしく!」

 よろしく、と言われたので「はい」と返した。

「名前は?」

「レンです」

「レン! いくつ?」

「七歳」

 ロットが固まった。一秒か二秒、完全に固まってから「七歳?」と言った。

「はい」

「見習い?」

「はい」

「七歳で見習い……」

「変ですか」

「変というか……いや、まあ、すごいな!」

 どちらとも取れる反応だった。俺は脇に退いて中に通した。


 ロットはミラ老師の前でも同じペースだった。

「ミラ老師! お久しぶりです。二年前に西の工房でお会いした、ロットです。覚えてますか?」

「覚えとらん」

「そうですよね! でも俺は覚えてます。老師が書かれた古い星図の写しを見せてくれた方でしょう? あれがすごくて、それ以来ファーレンに来てみたいと思ってたんです」

 老師が少し考えた。

「……写しか。確かに渡した気がする」

「やっぱり!」

 ロットは荷物を下ろして床に座った。招かれてもいないのに、当然のように座った。それを見てベルが少し笑った。

「どこから来たんですか」

 ベルが聞いた。

「最近はソルテという港町にいた。その前はもっと東の内陸の方で。各地の工房を回って技術を覚えてるんですよ」

「旅の見習い?」

「そう。一ヶ所に長くいるのが苦手で。半年に一度くらい動きたくなる」

「腕は上がりますか、そのやり方で」

「上がる! いろんな流派を見るから。でも師匠に怒られることも多い。「根を張れ」って」

 ロットは笑いながら言った。あっけらかんとしていた。


 話の流れで、俺は南西の星の話をロットにした。

 そうするとロットが「あ、それ聞いたことある」と言った。

「どこで」

「ソルテにいたとき。漁師が「最近あの辺の星が頼りにならなくなった」って言ってた。俺はあんまり気にしなかったけど」

「気にしなかったんですか」

「うん。星って気象とかで見え方変わるじゃないですか。その年の曇りが多かったとか。だからあんまり深刻に考えなくて」

 老師が低い声で言った。

「ソルテのどのあたりの星だ」

「南西、だったかな。確かに南西。ここから見てどっちですか」

 俺は指差した。ほぼ同じ方向だった。

「……」

 ロットは気づいていなかった。自分が重要な情報を持っていることに。

 でも老師は気づいていた。俺も気づいていた。ベルも、なんとなくは分かっていたと思う。


 その夜、記録帳に書いた。

 ロット、十七歳。旅の星図師見習い。ソルテでも南西方向の星に「頼りにならなくなった」という漁師の声があった。ソルテはファーレンから東に二日程度。距離が離れた二つの地点で、同じ方向の星が変化している。

 俺は少し考えた。

 二点から同じ方向を見ている。ファーレンからの南西と、ソルテからの南西は、厳密には指す位置が違う。でも「同じ星」を指している可能性はある。

 または、違う星が同じ方向に複数存在していて、それが同時に変化している可能性もある。

 分からない。でも、範囲が広がった。一つの工房から見ているだけでは気づかなかったことが、別の地点のデータがあれば見えてくる。

 ロットは情報を持っている。本人はそれが情報だと思っていないが、持っている。

 俺は記録帳の人物欄にロットの名前を書いた。

 詳しく聞く必要がある。どこで何を見て、何を聞いたか。


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