第15話 二つ目の星
ベルが工房に加わってから一週間が経った。
仕事の覚えは速い子だった。素材の場所、写図の手順、工房のルール。一度説明すれば翌日には実行できる。ただ、時々窓の外を見ながら止まる。ソーラが声をかけると「考えてた」と言う。何を考えていたかは言わない。
「あの子、ぼーっとすることが多いな」
ダンが素材の引き渡しで来たときに言った。最近は週に一度、エッダ工房とのやりとりがあって、ダンがそのルートを担っていた。
「考えているんだと思います」
「ぼーっとしているのと違いは?」
「本人しか分からない」
「まあそうか」
ダンはベルを見た。ベルは今日も南の窓の外を見ていた。
「俺とそんなに年変わらないじゃないか、あの子」
「三歳違います」
「なんで七歳が数えてるんだ」
俺は答えなかった。答える必要がなかったからではなく、答え方が分からなかったからだ。七歳が計算するのは確かに普通ではないかもしれないが、俺には普通のことだった。
夜の観測は、最近ベルと二人でやることが多い。
ガルトはその日によって来たり来なかったりで、ソーラは仕事の準備で来ないことが多い。コルダ老人は港に夜いることもあるが、塔には上がらない。リナは今ごろ寝ている時間だ。
天井を開けると、ベルが「晴れてる」と言った。毎晩言う。晴れた空が好きなのだと分かった。
「内陸の町は霧が多かった」とベルはこの前言っていた。だからここの空が嬉しいのかもしれない。
俺は記録帳を開いた。基準星を確認してから、北方向から順に見ていく。先日ベルが「薄い」と言っていた方角も含めて、変化がないか確かめる。今夜はまだ変化は見えない。
西、南西、南の順に目を動かした。
南西で止まった。
名称のない小さな星。俺が記録を始めてから「相対指数72」と記録してきた星だ。今夜の感触が、違う。
目を細めた。星の輝度を確認するとき、俺は目を少し細めてにじみ具合を比較する。明るい星はにじみが大きい。暗い星はにじみが小さい。今夜のそれは——小さかった。
「……」
「どうしたの」
ベルが気づいた。
「あそこの星を見てもらえますか」
南西方向を指差した。ベルがしばらく黙って見た。
「なんか……」
「なんか」
「少し、寂しい感じがする。悲しいほどじゃないんだけど。なんか、欠けてる感じ」
俺は記録帳に書いた。
ベル・感覚:欠けている感じ。悲しいほどではないが寂しさを覚える。
翌朝、過去の記録を全部並べた。
記録を始めたのは一年近く前だ。毎晩書いてきた輝度の推定値を、南西の星について時系列で並べると——
76、74、73、72、72、72、71、70、69、68、67……。
緩やかに下がっている。
俺は気づいていなかった。一夜の変化が小さすぎて、その日その日の記録では分からなかった。でも時系列で並べると分かる。数ヶ月をかけて、この星は確実に暗くなっていた。
夕明け星の消失は急だった。ある日、突然消えていた。
でも、この星は違う。ゆっくりと消えていこうとしている。
椅子に座ったまま、しばらく記録帳を見ていた。
どちらが本当の消え方なのか。急速に消えるのと、緩やかに消えるのは、同じ現象の違う表れ方なのか。それとも、全く別の原因が二つ同時に起きているのか。
分からない。でも問いは立てた。
記録帳に書いた。
事実:南西方向・名称なし・基準座標〇〇。相対指数76(十ヶ月前)→67(昨夜)。月平均約1ポイントの低下。このまま続けば半年程度で観測限界を下回る見込み。 推測:夕明け星の消失と同種の現象の可能性。ただし速度は大きく異なる。原因が同一かどうかは不明。
ガルトに報告した。
「南西の星が暗くなっています。過去の記録を並べると、十ヶ月前から低下が始まっていました」
「気づかなかったのか」
「一夜の変化が小さすぎました。並べて初めて分かりました」
ガルトはしばらく黙った。窓の外を見ていた。
「続けろ。毎晩記録しろ」
「はい。それと——ベルも「欠けている感じがする」と言っていました。ベルは西の方向でも、俺が気づく前に感覚で察していた。精度が高い」
「……」
「ベルにも南西方向を定期的に見てもらうことにしていいですか」
「判断はお前に任せる」
それだけ言って、父は仕事に戻った。
「判断はお前に任せる」。父がそういう言い方をしたのは初めてだった。七歳に言う言葉ではないかもしれない。でも言った。
俺はその言葉を記録帳には書かなかった。でも、覚えておくことにした。
「ベル」
「はい」
「南西の方向を、毎晩見てもらえますか」
「さっきの星ですか」
「そうです」
ベルがうなずいた。
「分かった。感じが変わったら言います」
「昨夜以前は、あの方向を感じたことはありましたか」
「なかったと思う。でも毎日見ていたわけじゃないから、気づいてなかっただけかもしれない」
「これからは毎日見てください」
「了解です」
ベルは少し間を置いてから言った。
「消えていくんですか、あの星も」
「分かりません。でも、何かが起きていることは確かだと思います」
「止められる?」
俺は少し考えた。止められるかどうか。俺にできることと、できないことの境界。
「分かりません。でも、記録はできます」
ベルが空を見た。南西の方向を、昼間の空に向けて。
「記録か……」
何かを思っているような顔だった。俺には分からない表情だった。
その夜、俺は記録帳に二件目の記録を清書した。
一件目:夕明け星。消失確認日。急速な消滅。 二件目:南西・名称なし。低下継続中。緩やかな消滅。
並べると、二件はだいぶ性格が違う。でも——どちらも消えていく方向に動いている。
フィンが港で言っていたことを思い出した。東のランドという村で、老人たちが同じ時期の記憶を失っている。記録帳の補足欄にそれを書いてあった。
星が消える。記憶が消える。
関係があるのかどうか、今の段階では全く分からない。でも気になった。ただ気になった、それだけだ。
補足欄に一行書いた。
「一件は偶然かもしれない。でも二件は、傾向かもしれない」
断定ではない。でも無視もしない。
そういう書き方をした。




