エピローグ——記録は続く
三年が経った。
ファーレンの秋は、相変わらず空が澄んでいた。
屋根の上で記録帳を開いたとき、下からベルの声がした。
「レン師匠、エスタから手紙が来ました」
「ロットからですか」
「そうです。分厚い」
「後で読みます」
「今日の分を終わらせてから、ですか」
「はい」
ベルが苦笑した気配がした。
三年経っても、俺の順番は変わらない。今夜の記録が先。手紙は後。
まあ、そういう人間なので。
北の空を確認した。
基準星のアルタは今夜も安定している。
東の空に視線を移した。
——あった。
新しい星だ。
先月から少しずつ明るさが増していた小さな点が、今夜ははっきりと白く輝いていた。
正確に言えば「新しい」わけではない。記録上、この座標に星が存在していた痕跡はある。ただ、失星図には記録されていなかった。俺が観測記録を遡って確認したとき、最後の観測から百年以上が空いていた。
消えていたのか。
それとも、誰も記録していなかっただけなのか。
——まだ分からない。
でも今夜、ここにある。
それだけは確かだ。
測定値を書き込んだ。
座標。明るさ。基準星との相対位置。昨夜との差分。先月との差分。
書きながら思った。
前の世界でも、こういう星があった。
誰かが記録を止めた後に、ひっそりと光り続けていた星。見つけたのが台風の夜の直前で、データを引き継ぐ暇がなかった。あの星が今どうなっているかは、もう分からない。
——でも。
この星は俺が見ている。
今夜、記録した。
それで十分だと思うことにした。
記録帳を閉じたとき、ベルが梯子を上がってきた。
「終わりましたか」
「終わりました。東の星、見てください」
ベルが空を見た。
しばらく黙っていた。
「……明るくなりましたね」
「三週間前より0.2等上がっています」
「このまま上がり続けますか」
「分かりません。記録を続けます」
「はい」
ベルが自分の記録帳を出した。
几帳面な字で、今夜の観測値が書いてある。俺の記録と数値を照合した。ほぼ一致していた。
微妙な差がある箇所は、観測のタイミングの違いだ。
「ここ、俺より5分早い」
「先に屋根に上がっていたので」
「大気の揺れが少ない時間です。ベルの値の方が精度が高い」
「そうですか」
「ベルの値を採用します」
ベルが少し黙った。
「——俺の値を採用するのは今年で何度目ですか」
「数えていません。精度が高い方を使うだけです」
「……はい」
少し照れているような間があった。
ベルも三年前よりずいぶん変わった。
最初に工房に来たとき、ベルは自分の記録に自信がなかった。数値を出しても、すぐ「これで合っていますか」と確認した。今は確認する前に照合する。違いを自分で見つけようとする。
それでいい。
ロットからの手紙を読んだのは、夜が深くなってからだった。
エスタ大陸の港町から書いてきたらしい。
「コンラートじいさんが元気でよかった。工房はだいぶ手を入れた。屋根がひどかった。でも空はきれい。ここの星はファーレンと少し違う。記録しがいがある」
そういう書き方をするようになったと思った。
昔は「空、すごくない?」だった。
今は「記録しがいがある」に変わっている。
同じことを言っているのかもしれない。
でも言葉が変わった。
——それがロットの三年間だ。
「ベル師匠に会いに行きたいと工房の見習いが言っているので連れていっていい? ベルのネットワークの話が星図師の間で広まっている。若い子に話してほしいらしい」
ベルに読み上げた。
「……俺が話すんですか」
「ロットがそう書いています」
「レン師匠が話した方がいいのでは」
「俺の話ではなく、ベルの話です。ネットワークを作ったのはベルなので」
ベルが少し困った顔をした。
「でも、元はレン師匠が各地に手紙を送ったから」
「最初の手紙はそうです。でも今、ネットワークが動いているのはベルが窓口をやっているからです」
「……」
「行った方がいい。エスタの空も記録できます」
「記録で説得しないでください」
「効きましたか」
「……効きました」
手紙を記録帳の横に置いた。
ベルが「明日返事を書きます」と言って、部屋に下がった。
俺は一人で机に残った。
窓から空を見た。
屋根の向こうに、東の星がまだ光っていた。
小さくて、静かな光だ。
——お前は誰の記憶なのか。
百年前に消えたのか、ただ記録されなかっただけなのか。
答えは分からない。
たぶん、分からないまま終わることの方が多い。
俺が調べ続けたシェイドが消した星たちも、失われた記憶は戻らなかった。図書院の封鎖された部屋は今も封鎖されたままだ。
それでも記録は残っている。
消えた座標と、消えた日付と、「消失確認済み」という文字が。
記録とは、そういうものだと今は思っている。
全部を取り戻すことではない。何があったかを、残しておくこと。
新しい記録帳を引き出しから出した。
今月で三冊目になる。ベルの記録を合わせると、工房の棚はだいぶ埋まってきた。
ガルトが長年かけて積み上げた棚の、隣の段が俺とベルの記録帳になっている。
父さんの記録帳と俺の記録帳が、同じ棚に並んでいる。
——なんか、それだけで少し、いいなと思う。
感動とかロマンとかはよく分からない俺だけど。
これだけは素直にそう思った。
記録帳を開いた。
今夜の最後に一行書いた。
「東の座標に星。明るさ継続して上昇。来週も記録する」
それだけ書いて、筆を置いた。
窓の外で、秋の風が吹いた。
星は揺れない。
風が吹いても、雨が降っても、星は動かない。
俺はそれを、今夜も記録した。
明日もする。
ベルが継いで、ロットが外の空を記録して、そのまた次の誰かに渡っていく。
それだけだ。
それで、十分だと思った。
東の空に、小さな星が光っている。
名前はまだない。
でも今夜、ここに在る。
それを、俺は知っている。




