第100話 継承
朝、記録帳の最後のページを書いた。
一冊が終わった。旅から帰ってきてから使っていたものだ。厚みのある記録帳で、書き終えるのに一年近くかかった。
最後のページに書いたのは、今夜の観測値ではなかった。
少し違うことを書きたかった。
「この記録帳を手に取ったのがいつか、最後のページを書くのは今だ。この間に何があったかは、この記録帳全体に書いてある。
星図師は空の欠けを知っている。星が消えたことを、俺は記録する。消えた場所に何があったかを書く。残っている星の測定値を書く。それだけをしてきた。
カイがそうした。俺もそうした。次の者もそうする。
以上。レン」
記録帳を閉じた。
新しい一冊を机の引き出しから出した。表紙が真っ白だった。
日付を書いた。場所を書いた。
それだけ書いて、ひとまず閉じた。
工房にベルが来た。
「師匠、今日の観測計画ですが——」
ベルが段取りを話し始めた。今日観測する座標。確認したい星の一覧。記録ネットワークの担当者から届いた記録の確認作業。
俺は聞きながら、少し嬉しかった。
ベルが仕切っている。工房の記録の流れをベルが管理している。俺が指示しなくてもいい部分が増えた。
「ベル、一つ頼みたいことがあります」
「何ですか」
「今日の観測は、ベルが主で記録してください。俺は補助に回ります」
ベルが少し驚いた顔をした。
「主が俺、ですか」
「そうです。俺が補助に回ることを試してみたい」
「できるかどうか——やってみます」
その夜の観測は、ベルが主で行った。
ベルが観測して記録した。俺が時々確認した。でも、記録帳に書くのはベルだった。
観測が終わって、ベルが記録帳を見せた。丁寧だった。補足も入っていた。見落としている点がないか確認したが、なかった。
「よくできています」
「緊張しました」
「緊張は慣れます」
「師匠は緊張しますか」
「します。毎晩、空を見るたびに、少し緊張します。今夜は何があるか分からない。でも、それが記録する理由でもある」
ロットが出発前の夜に来た。
翌日、エスタとネベルの間の街に向かうことになっていた。
「最後の夕飯、ここで食えますか」
「もちろんです。テオさんに声をかけます」
テオが来た。ダンが来た。ソーラが来た。ガルトも珍しく食卓に座った。
賑やかな夕食だった。
ロットが笑いながら話した。旅の話。これからの工房の話。コンラートじいさんが「若者が来るなら掃除しておく」と言っていた話。
ダンが「遠いけどいつか行く」と言った。ロットが「来い! 泊まれる部屋を作っておく!」と言った。
テオが「達者でな」と一言だけ言った。
翌朝、ロットが出発した。
荷物を担いで、工房の前に立った。
「また来ます」
「待っています」
「ベルは記録をちゃんと続けてな!」
「続けます!」
「師匠は健康でいてください。記録する者が倒れたら記録が止まる」
「父さんと同じことを言いますね」
「ガルト師匠が正しいから!」
ロットが振り返りながら歩いて行った。角のところで振り返って、大きく手を振った。
全員が手を振った。
ロットが笑って、角を曲がって、見えなくなった。
工房に戻った。
新しい記録帳を机の上に置いた。まだ一行しか書いていない。
今夜の観測が終わったら、続きを書く。明日もその次も書く。
空には欠けがある。俺はそれを知っている。そして書き続ける。
消えたものも残っているものも、今夜の空も、次の者のために。
「今日も記録する。それだけだ」




