第9話:秘密の境界線と、三人の均衡
人生には、どれほど入念に準備をしていても回避できない「詰み」の瞬間がある。
佐藤凛にとってのそれは、今、この瞬間に他ならなかった。
静まり返った楽屋。ソファに横たわる無防備なアイドル・レンと、その傍らで彼の手を握るようにマッサージしていた三十五歳の自分。
そして、入り口で凍りついているグループのリーダー、カイ。
(終わった。私の社会人生活も、レンくんの清廉なイメージも、すべてがこの一秒で塵になる……!)
凛の脳内では、すでに「マッサージ師、アイドルの楽屋で不適切な接触」というネットニュースの見出しが躍り、謝罪会見のシミュレーションまで始まっていた。
対するカイは、鋭い三白眼を細め、手に持っていたライブのセットリストをパラリと床に落とした。
「……えっと。……お取込み中、だったかな?」
カイの声は、驚きというよりは、冷徹な観察者のそれだった。
彼はグループ内でも「智将」と称されるほど頭の回転が速く、状況を冷静に分析するタイプだ。だからこそ、この「異常な光景」が持つ意味を瞬時に理解し、最悪の可能性――つまり、レンがスタッフに手を出した、あるいはその逆――を疑っているのが分かった。
凛は、バネ仕掛けの人形のように立ち上がった。
指先は震えているが、表情だけは一秒で「鋼の仮面」へと戻す。
「失礼いたしました。キュア・ハンズから派遣されました、理学療法士の佐藤と申します。レン様の腰の容態が急変したため、緊急の処置を行っておりました」
声は震えていない。完璧な敬語だ。凛は一歩下がり、これ以上ないほど深い角度で一礼した。
「……緊急、ね」
カイは一歩、また一歩と部屋の中へ踏み込んできた。彼はレンの寝顔を一瞥し、それから凛の手元にある冷却ジェルやテーピングの残骸に目を向けた。
「確かに、アイツの腰はヤバかった。今日のパフォーマンスを見て、誰かが裏で相当無理矢理に『動けるようにした』んだろうなとは思ってたけど……。君が、その『誰か』?」
「……はい。微力ながら、お手伝いをさせていただきました」
「ふーん。……でもさ、マッサージって、普通はもっと『事務的』なもんでしょ。……さっきの距離、あれは仕事の範疇を越えてるように見えたけど?」
カイの言葉が、凛の心臓を直接抉る。
言い逃れはできない。眠るレンに抱きつかれ、あまつさえその手を優しく握り返そうとしていた自分の甘さは、プロとして、そしてファンとして、万死に値する。
凛が反論できずに唇を噛み締めた、その時だった。
「……ん……。カイ君? うるさいよ……。今、いいところだったのに……」
ソファの上のレンが、うっすらと目を開けた。
彼はまだ覚醒しきっていない様子で、自分の上にかけられたタオルを引き寄せると、そのままカイの方へ視線を投げた。
「レン、お前。……このお姉さんと、どういう関係?」
カイの端的な問いに、レンは少しだけ思考を巡らせるように瞬きを繰り返した。
凛は祈った。お願いだから、変なことは言わないで。普通に「頼りになるスタッフさん」だと説明して。
しかし、レンの口から飛び出したのは、凛の予想を遥か斜め上に飛び越える爆弾発言だった。
「……どういう関係って……。僕の、『命の恩人』。……あと、僕だけの『神様』。カイ君、佐藤さんに変なイチャモンつけないでよ。僕が無理を言って、ここに残ってもらったんだから」
(神様!? 待って、その言い方は余計に怪しいってば!!)
凛は天を仰ぎたくなった。レンの言葉は、彼にとっては純粋な感謝の表現なのだろう。だが、第三者の、それも用心深いリーダーの耳には「密接な男女の関係」を暗示する甘い響きとして届いてしまう。
カイは眉根を寄せ、深いため息をついた。
「……はぁ。……お前さ、自分が今、どれだけ危ういこと言ってるか分かってる?」
「分かってるよ。……だから、佐藤さんは僕の『専属』なんだってば。事務所にもそう伝えてあるし」
レンはそう言うと、よろよろと起き上がり、凛の腕をぐいと引っ張った。
不意を突かれた凛は、彼の隣に座らされる形になる。
「カイ君には特別に教えてあげる。佐藤さんの指、マジで魔法なんだよ。……僕、佐藤さんがいないと、もう明日から踊れない。……それくらい、佐藤さんは僕にとって『特別』な人なの」
特別。
レンはそう言って、凛の方を見て、無邪気に――けれどどこか独占欲を感じさせる強い眼差しで――微笑んだ。
凛の心臓は、もはや停止の危機に瀕していた。
ファンの前で見せる笑顔とは違う。一人の「男」が、自分の大切な所有物を自慢するような、熱を帯びた微笑。
カイはしばらく無言で二人を見つめていたが、やがて呆れたように肩をすくめた。
「……なるほど。……レンがここまで執着する相手は、初めてだな」
カイは凛の方に向き直り、少しだけ表情を和らげた。
「……佐藤さん、でしたっけ。……アイツの我儘に付き合わされて、大変でしょうが。……確かに、今日のあいつのステージは、過去最高だった。それは、あんたの腕のおかげなんだろうな」
カイは床に落としたセットリストを拾い上げると、出口に向かって歩き出した。
「……不倫だのスキャンダルだの、そういう下世話な真似はするなよ。……レンを壊すような奴なら、俺が全力で潰すから。……でも、レンを支える『プロ』としてなら、歓迎するよ」
ドアが静かに閉まり、楽屋に再び二人きりの時間が戻った。
凛は、ようやく肺に空気が入ってくるのを感じた。
「……レ、レン様。……心臓が、止まるかと思いました」
「あはは、ごめんね。カイ君、ああ見えて心配性だから。……でも、僕の言ったこと、嘘じゃないよ」
レンは、隣に座る凛の肩に、こてん、と頭を乗せた。
「……佐藤さん。……僕のこと、これからも支えてね。……ファンとしてじゃなくて、『僕の、佐藤さん』として」
三十五歳、独身マッサージ師。
彼女の正体はまだバレていない。だが、彼女と推しとの間には、もはや「契約」だけでは説明できない、濃密な何かが芽生え始めていた。
ライブ会場の楽屋。
戦いを終えた二人の影が、オレンジ色の照明の下で、一つに重なっていた。




