第10話:祭りの後の静寂、届かない指先
華やかな祭りの後には、決まって耐え難いほどの静寂が訪れる。
数万人の歓声を浴び、ステージの頂点で「神」として君臨した数時間後。高級マンションの広すぎるリビングに一人で座るアイドルの背中は、三十五歳の佐藤凛の目には、迷子になった子供のそれのように小さく見えた。
「……レン様。失礼いたします」
凛は、いつものようにドアを開け、部屋へと足を踏み入れた。
だが、今日の空気は以前とは明らかに違っていた。部屋の明かりは落とされ、テレビも点いていない。ただ、ソファの隅でレンがスマートフォンの画面を無表情に見つめていた。その青白い光に照らされた彼の横顔には、ライブ直後のあの輝きは一片も残っていない。
「あ……佐藤さん。……今日も、来てくれたんだね」
レンの声は、乾いた砂のように掠れていた。
凛は、返事をする前に彼の「筋肉」を観察した。
……悪い。
前回のライブ直後のような「疲労による熱」ではない。もっと根が深く、冷たい何かが彼の身体を支配している。指先を動かさずとも分かる。彼の脊柱起立筋は、外敵から身を守る動物のように硬く、強張っていた。
「……レン様。スマートフォンを置いていただけますか。今は、何も見ない方がよろしい」
凛の静かな、けれど断固とした言葉に、レンの指がぴくりと跳ねた。
彼は力なく笑い、画面を消してソファに放り出した。
「……バレた? あはは、さすが佐藤さん。……新曲のパフォーマンス、あんなに頑張ったのにさ。ネットじゃ『センターだけ目立ちすぎ』とか『演出が古臭い』とか……。あ、一番刺さったのはこれかな。『レンの笑顔、最近無理してるのが透けて見える』だって」
レンは自嘲気味に呟き、顔を覆った。
「……無理なんて、ずっとしてるのに。……今さら何を言われても平気だと思ってたんだけどな。今日は、なんか……指先まで冷たくなっちゃって」
凛は胸の奥が、ぎゅっと握りつぶされるような感覚に陥った。
ファンとしての自分なら、即座に「そんなの気にしないで! あなたは最高だった!」と叫んでいただろう。けれど、今の自分は彼の専属マッサージ師。言葉の慰めよりも、この冷え切った身体に「体温」を取り戻すことが先決だ。
「……レン様。ベッドへ。今日は、お話はしなくて結構です。私の指に、すべて預けてください」
凛は、オイルを手に取り、いつもより時間をかけて掌で温めた。
横たわったレンの背中に、温まった手をそっと置く。
――冷たい。
高級マンションの空調のせいではない。心の芯が凍りつくと、人間は末端から体温を失っていく。
凛は、彼の首筋から肩にかけて、ゆっくりと、祈るような重圧をかけて滑らせた。
(……痛かったわね。……怖かったわね、レンくん)
心の中でだけ、彼女はそう語りかけた。
三十五歳の女性が、二十三歳の少年に送る、無償の慈愛。
それはもはや「ファン」という枠を越え、傷ついた魂を癒やす「プロ」としての執念だった。
「……っ……ぁ……」
凛の指が、耳の下から鎖骨へと繋がる胸鎖乳突筋を優しく捉えた瞬間、レンの口から小さな吐息が漏れた。
ここは感情の溜まり場だ。ストレスを感じると、無意識に食いしばり、ここが石のように硬くなる。
凛は、その硬結を一つずつ、解くように解していく。
「レン様。……あなたは、十分に役割を果たされました。……今のあなたは、誰の期待にも応えなくていい。ただ、ここにいて、息をしているだけでいいのです」
凛の声は、低く、落ち着いたリズムでレンの耳に届く。
「……佐藤さん。……僕さ、たまに分からなくなるんだ。……みんなが好きなのは、ステージで笑ってる『レン』であって、こうして暗い部屋で丸まってる『僕』じゃないんじゃないかって」
「……だとしたら、私は幸運ですね」
凛は、彼の肩甲骨の間に、じわじわと親指を沈めながら答えた。
「私は、どちらのあなたも知っています。……ステージで誰よりも高く飛ぶあなたの筋肉も、今、こうして私の下で震えているあなたの筋肉も。……私にとっては、どちらも同じ、守るべき『一人の人間』の身体です」
レンの身体が、一瞬、大きく波打った。
そして、彼は枕に顔を押し当てたまま、声を殺して泣き始めた。
嗚咽と共に、背中の筋肉が激しく痙攣する。
凛は手を止めなかった。
泣けばいい。毒素を涙と一緒に流し出せばいい。
彼女は、激しく揺れる彼の背中を、大きな波を鎮めるように、力強く、それでいて壊れ物を扱うような繊細さで撫で続けた。
「……ひっ、ふぅ、うう……っ。……佐藤さん、あったかい。……佐藤さんの手、本当に……ズルいよ……」
泣きじゃくるレンの言葉に、凛の目尻にも熱いものが込み上げてきた。
(……ズルいのは、あなたのほうよ。……こんな姿を見せられたら、もう、一生離れられなくなるじゃない)
三十五歳、独身マッサージ師。
彼女はこの夜、初めて「推しの心の深淵」に触れた。
一時間後。
全ての感情を出し切ったレンは、子供のような寝顔で深い眠りに落ちていた。
凛は、彼の頬に残った涙の跡を、タオルでそっと拭った。
窓の外では、東京の夜景が相変わらず無機質な光を放っている。
けれど、この部屋の中だけは、オレンジ色の柔らかな光と、確かな体温が満ちていた。
凛は、部屋を出る直前、眠る彼の耳元で囁いた。
「……明日も、私があなたの味方ですよ。……世界中があなたを疑っても、私の指先だけは、あなたの努力を知っていますから」
それは、ファンとしての「ガチ恋」を超えた、一人の人間としての、深すぎる「献身」の芽生えだった。




