第11話:朝の光と、溶け出す境界線
一晩中泣き明かし、泥のように眠った翌朝。
佐藤凛は、レンのマンションのキッチンで、一人静かに白湯を沸かしていた。
(……やってしまった。完全に一線を越えているわ、私)
昨夜、感情を爆発させて眠りについたレンを放っておけず、凛は彼が落ち着くまでリビングの椅子で夜を明かした。マッサージ師として、もはや「出張サービス」の範疇を大きく逸脱している。本来なら施術が終われば即座に立ち去るのが鉄則だ。
「……ん。……あ、佐藤さん……?」
寝室から、少し寝ぼけた声がした。
現れたレンは、昨夜の悲壮感とは打って変わって、どこかスッキリとした顔をしていた。乱れた髪を掻き上げ、少し腫れた目で凛を見つめる。その瞳には、昨夜共有した「弱さ」への気恥ずかしさと、それ以上に深い親愛の情が浮かんでいた。
「おはようございます、レン様。……少しは、眠れましたか?」
「うん。……あんなにぐっすり寝たの、デビュー以来初めてかも。……佐藤さんが、ずっと隣にいてくれたからかな」
レンはふらふらとキッチンまで歩いてくると、凛の隣でカウンターに肘をついた。
「……ごめんね。昨日、あんなに泣いちゃって。……三十五歳のお姉さんに、二十三歳のアイドルが縋り付くなんて、最高に格好悪いよね」
レンが自嘲気味に笑う。
凛は、沸騰したケトルを止め、落ち着いた動作で彼に白湯を差し出した。
「格好悪くなどありません。……人間、誰しも抱えきれない重荷を背負う時はあります。それを下ろす場所が、たまたま私の指先だった。それだけのことです」
「……そっか。……佐藤さんって、本当に動じないよね。僕が何をしても、どんな姿を見せても、いつもの『佐藤さん』でいてくれる」
レンは白湯を一口飲み、その温かさに目を細めた。
「……あのさ。昨日の夜、僕が寝る前に言ったこと、覚えてる?」
凛の心臓が、跳ねた。
――『僕のこと、これからも支えてね』。
その言葉の意味を、プロとしての事務的な解釈で塗りつぶそうとしていた凛だったが、レンの真剣な眼差しから逃げることはできなかった。
「……光栄なお言葉として、胸に刻んでおります」
「違うよ。……事務的な返事じゃなくてさ。……僕、本気なんだ。佐藤さんじゃないと、ダメなんだよ」
レンが、空いた手で凛のポロシャツの袖を、遠慮がちに、けれどしっかりと掴んだ。
「僕の周りには、僕を『商品』として見る大人か、『王子様』として崇めるファンしかいない。……でも、佐藤さんは、僕の『痛み』を見てくれる。……僕がアイドルじゃなくなっても、佐藤さんだけは、僕の筋肉を叱ってくれるでしょ?」
(……ズルいわ、本当に。……そんな風に、特別になりたい場所をピンポイントで突いてくるなんて)
凛は、彼の手を振り払うことができなかった。
三十五歳の独身女性。現実を見れば、彼との間には越えられない壁がいくつもある。年齢、立場、そして自分が彼を「推している」という隠された真実。
けれど、目の前で自分の袖を掴み、捨てられた子犬のような目で見つめてくるこの若者を、突き放せるはずもなかった。
「……レン様。私は、あなたの専属マッサージ師です。……あなたがステージに立ち続ける限り、私は何度でも、あなたの身体をメンテナンスしに来ます。……それが、私の出す答えです」
凛は努めて冷静に、けれど確かな決意を込めて告げた。
レンはしばらく凛の顔を見つめていたが、やがてパッと明るい笑顔を咲かせた。
「……うん! 十分だよ。……あーあ、なんか、急にお腹空いてきちゃったな! 佐藤さん、何か作ってよ。……あ、もしかして、料理も『プロ』だったりする?」
「……あいにくですが、料理は家庭科の授業レベルです。……ですが、胃に優しいお粥くらいなら、作れなくもありません」
「お粥! いいね、最高。……佐藤さんの作ったお粥なら、絶対『味』がすると思うし」
レンは陽気にキッチンを離れ、リビングでストレッチを始めた。
つい数時間前まで絶望の淵にいたとは思えないほどの回復力。それもまた、彼の才能なのだろう。
凛は、米を研ぎながら、自分の指先を見つめた。
昨夜、彼の背中を撫で続けた感触が、まだ掌に残っている。
(……推しの健康を守るために、お粥まで作る羽目になるなんて。……なろう系の小説でも、もう少し自重する展開じゃないかしら)
けれど、トントントン、とまな板を叩く音が、今の凛にはどんなライブの重低音よりも心地よく響いていた。
朝の光が差し込むキッチン。
三十五歳のマッサージ師と、二十三歳のアイドル。
二人の間にある境界線は、朝粥の湯気のように、ゆっくりと、けれど確実に溶け始めていた。
* * *
数時間後。凛がマンションを去る際、レンは玄関まで見送りに来た。
「佐藤さん。……次は、三日後だよね? ……楽しみにしてるから。あ、あと、昨日の配信のコメント、佐藤さんのアドバイス通りに姿勢を直してたら、ファンのみんなに『最近、レンくんの座り方綺麗になったね』って褒められたよ。……ありがとう」
レンはそう言って、凛の耳元に顔を近づけた。
「……大好きだよ、僕の『神様』」
耳を掠めた熱い吐息と、その言葉。
凛は、返事をする間もなく逃げるようにエレベーターに飛び乗った。
閉まる扉の隙間から見えたレンの顔は、勝利を確信したような、少し意地悪で、最高に魅力的なアイドルの笑顔だった。
(…………三十五歳。……寿命が、十年縮まったわ)
彼女の戦場は、もはや「背中の上」だけでは収まりきらなくなっていた。




