第12話:揺らぐ天秤と、秘密の代償
幸せの絶頂と、破滅の予感は、常に隣り合わせである。
三十五歳の佐藤凛は、高級マンションのエレベーターの鏡に映る自分の顔を見て、深く溜息をついた。
頬がわずかに上気し、瞳には熱が宿っている。それは、一介の訪問マッサージ師が、顧客であるアイドルの家から出てきた時の顔ではない。……完全に「恋」をしている、あるいは「極上のファンサを受けた」直後の、一人の女の顔だった。
(ダメよ、凛。しっかりしなさい。あなたは彼の『命の恩人』でも『神様』でもない。ただの、腕のいい外注スタッフなんだから……!)
頬を両手で叩き、頭を振って理性を呼び戻す。
しかし、耳元に残る「大好きだよ」という甘い囁きは、強力な粘着剤のように脳裏にこびりついて離れない。
アイドルという生き物は、サービス精神の塊だ。彼はただ、自分を救ってくれた「便利な道具」に対して、最大限の感謝を伝えたに過ぎない。……そう自分に言い聞かせるが、そのたびに、昨夜彼が見せたあの「脆い涙」が脳裏をよぎる。
凛は、逃げるように自宅のアパートへ戻り、いつものようにPCを立ち上げた。
彼女にはもう一つの日課がある。それは、レンのファンコミュニティでの情報収集――という名の、現実逃避だ。
画面には、レンの最新MVの再生数が伸び続けていることを祝うファンの書き込みや、今日の彼のSNS投稿に対する熱狂的なリプライが並んでいる。
『レンくん、今日の自撮り、なんか吹っ切れたような良い顔してる!』
『やっぱり新曲のダンス、キレが戻ったよね。腰、大丈夫そうで良かった』
それらの書き込みを見ながら、凛の胸の奥で、ドロりとした「優越感」と「罪悪感」が混ざり合う。
その「良い顔」を作ったのは、自分だ。
その「ダンスのキレ」を取り戻させたのは、自分の指だ。
誰にも言えない。世界中の誰よりも彼を支えているのに、その事実は墓場まで持っていかなければならない。
「……はぁ。不健康だわ、私」
凛は自虐的に笑い、レンの公式グッズであるアクリルスタンドをそっと撫でた。
その時。スマホに、所属するマッサージセンターから一通のメールが届いた。
『佐藤さん、お疲れ様です。……【重要】なご相談があります。明日、出勤前に本社へ寄っていただけますか?』
心臓がどくん、と嫌な跳ね方をした。
* * *
翌朝、本社を訪れた凛を待っていたのは、センター長と、見慣れないスーツ姿の男性だった。
男性は名刺を差し出した。そこには、レンが所属する大手芸能事務所の名前が記されていた。
「……佐藤凛さんですね。蓮見奏のマネージャーを務めております、松下と申します」
凛は、全身の毛穴が収縮するのを感じた。
バレたのか?
自分がレンの熱狂的なファンであること。
あるいは、昨夜、規約を破って彼の家に泊まり込んだこと。
凛は震える拳を膝の上で握りしめ、プロの鉄面皮を貼り付けた。
「……はい。佐藤でございます。……レン様の件で、何か不手際がございましたでしょうか」
「いいえ。むしろその逆です」
松下と名乗ったマネージャーは、真剣な眼差しで切り出した。
「レンから、あなたの技術について、非常に強い推薦がありました。……彼は、今後のツアー、および海外公演にも、あなたを同行させたいと言い出しているのです」
「……同行、ですか」
「はい。ですが、我々としても、フリーのスタッフをいきなり帯同させるわけにはいきません。……そこで、佐藤さん。あなたを、期間限定で事務所の『専属トレーナー』として直接契約したいと考えています」
センター長が横から口を添える。
「佐藤さん、これは大チャンスよ。うちの宣伝にもなるし。……ただ、条件があるの」
松下の瞳が、鋭く光った。
「……身辺調査を、させていただきます。……彼のようなトップアイドルに密着する立場です。過去の言動、交友関係、そして……何より『彼に対して不適切な感情を持っていないか』。ファンとしての執着がないか。……それを厳密に調査させていただきます」
凛の背中に、滝のような冷や汗が流れた。
不適切な感情。
ファンとしての執着。
それらはすべて、凛という人間の本質そのものだ。
「……調査、ですか」
「ええ。今の時代、SNSの裏垢一つでスキャンダルになりますからね。……佐藤さん、あなたは大丈夫ですよね? 彼を、一人の『患者』として、ドライに扱えますね?」
沈黙が流れる。
凛の脳裏に、レンの笑顔が、涙が、そして「大好きだよ」という声が、濁流のように押し寄せる。
(言えるわけがない。……私が、彼の鎖骨に住みたいなんて思っている重度なオタクだなんて!)
だが、ここで断れば、レンとの繋がりは完全に絶たれるだろう。彼が求めてくれた「救い」に、応えることができなくなる。
「…………はい」
凛は、喉の奥から絞り出すように答えた。
「……私はプロです。レン様を……特別な感情で見るようなことは、決してございません」
二度目の、そして人生最大の嘘を。
凛は、自分自身の魂を切り売りするようにして、吐き出した。
* * *
事務所を出た凛は、眩しい日差しの中で立ち尽くしていた。
手に入れたのは、推しの隣にいられる最高の切符。
失ったのは、いつか真実を告げて、一人の人間として彼と向き合うかもしれないという、淡い可能性。
スマホが震えた。レンからのメッセージだ。
『佐藤さん! マネージャーから聞いた? 専属の件、受けてくれたんだよね! 嬉しいな。……これでずっと、僕のこと見ててくれるよね?』
無邪気な、あまりにも無邪気な信頼。
凛は、震える指で返信を打った。
『はい。……全力で、サポートさせていただきます。レン様』
三十五歳、独身マッサージ師。
彼女は今、自ら築いた「嘘の城」の中に、愛する王子様を閉じ込めた。
物語は、嘘と献身が入り混じる、さらなる禁断の領域へと加速していく。




