第8話:熱狂の残響、静寂の指先
アンコールが終わり、会場を揺らしていた重低音がふっと消える。
代わりに聞こえてくるのは、数万人の観客が残していった興奮の残滓と、遠くで鳴り続ける規制退場のアナウンスだけだ。
佐藤凛は、関係者以外立ち入り禁止の通路の隅で、一人静かに壁に寄りかかっていた。
モニター越しに見たレンのパフォーマンスは、圧巻の一言だった。
腰を痛めていたことなど微塵も感じさせない、鋭く、それでいてしなやかな躍動。彼が空中で弧を描くたび、凛の指先は無意識にその「筋肉の軌道」を追っていた。
(……無事に終わった。良かった。本当に、それだけ)
三十五歳のオタクとして、これ以上の幸せはないはずだ。
推しの最大のピンチを救い、その成果を最前線で見届けた。
だが、凛の心はまだ戦場にいた。マッサージ師としての本能が、ステージから降りてくるであろう「ボロボロになった肉体」を案じて、警報を鳴らし続けている。
数分後。
スタッフの怒号と慌ただしい足音と共に、メンバーたちが楽屋へと戻ってきた。
凛は反射的に身を隠そうとしたが、先頭を歩いていたレンが、彼女の姿を見つけた瞬間に相好を崩した。
「……あ。いた」
肩で荒い息をつき、全身から湯気が立つほどに汗をかいたレンが、ふらふらと凛の元へ歩み寄ってくる。
きらびやかな衣装は汗で肌に張り付き、メイクも少し崩れている。けれど、その瞳だけは、成功を確信したプロの輝きに満ちていた。
「佐藤さん。……見た? 僕、飛べたよ。全部、飛べた」
「……はい。拝見いたしました。素晴らしかったです、レン様」
凛がいつもの営業スマイルで一礼しようとした、その時だ。
レンの身体が、糸の切れた人形のように前方へと倒れ込んだ。
「――っ、レン様!?」
凛は慌ててその身体を受け止めた。
熱い。
腕の中に収まった彼の身体は、まるで焼けた鉄のように熱を発していた。
アドレナリンが切れ、無理をさせていた筋肉が限界を超えて悲鳴を上げ始めたのだ。
「……あはは。……ダメだ、足が、笑いすぎて……一歩も動けない」
レンが、凛の肩に顔を埋めたまま、掠れた声で笑う。
三十五歳の独身女性の腕の中に、今、全人類の弟であり、国民的スターであるレンが収まっている。
衣装のビジューが凛のポロシャツに食い込み、彼の荒い吐息が耳元を掠める。
(待って。これ、誰かに見られたら、私の人生どころか、この建物のセキュリティごと爆破される案件じゃないの!?)
「レ、レン様! 立てますか? 楽屋までお運びしますから……!」
「無理。……一分だけ、このまま。……佐藤さん、冷たくて気持ちいい……」
レンは、凛を抱きしめるような形で、その首筋に冷たさを求めて顔を擦り寄せた。
凛の頭の中では、理性が真っ赤な警告灯を点滅させながら爆発四散している。
(尊い。……いや、重い。……いや、熱い! 何この状況!? 推しの汗を全身で浴びてるんですけど!? 私は加湿器か何かだと思われてるの!?)
幸い、他のメンバーやスタッフは機材の片付けやミーティングで別の場所へ流れていっており、この通路には二人きりだった。
凛は必死に理性を繋ぎ止め、レンの身体を支えながら、ゆっくりと壁伝いに彼を楽屋へと誘導した。
* * *
楽屋のソファに横たわったレンは、先ほどまでの「無敵のアイドル」の面影はどこへやら、ぐったりと力なく目を閉じている。
凛は休む間もなく、予備の冷却シートとタオルを取り出した。
「衣装を脱がせます。……失礼いたしますね」
「ん……ごめん。手が、震えて……自分じゃ無理……」
凛は迷うことなく、彼の衣装のボタンに手をかけた。
ファンとしての煩悩など、どこかへ消え失せていた。
指先に触れる布地の熱さ、その下にある、酷使されすぎて痙攣している筋肉。
それを目の当たりにすれば、下心など抱く余裕はない。
衣装を脱がせ、スポーツタオルをかけたレンの身体。
その背中に、凛は再び指先を沈めた。
「……ああ。……これだ。……佐藤さんの指」
レンが、心地良さそうに喉を鳴らす。
自宅での施術とは違う。ライブ後のケアは、筋肉を揉みほぐすのではなく、神経の昂ぶりを鎮め、身体に「もう休んでいい」と教え込むための、優しいタッチが求められる。
凛は、彼の脊柱に沿って、ゆっくりと手のひらを滑らせた。
緊張が解け、彼の身体が次第にソファに沈み込んでいく。
「佐藤さん。……君がいなかったら、僕、今日は途中で動けなくなってたと思う。……本当に、感謝してる。……ありがとう」
レンが、目を閉じたまま、そっと凛の手の上に自分の手を重ねた。
「…………」
凛は言葉を失った。
その手のひらは、先ほどまでの熱を失い、少しだけ冷たくなっていた。
アイドルとしての重圧を乗り越えた後の、虚脱と安堵。
その一番無防備な瞬間を、彼は自分に預けている。
(……ズルいわよ、本当に。……こんな顔、私に見せないでよ)
凛は、重なった彼の手を優しく握り返したい衝動を、プロの自制心で踏み止どまらせた。
代わりに、彼女は彼の指先の一本一本を、丁寧にマッサージし始めた。
マイクを握り締め、ファンに向かって手を振り続けた、その指を。
「……それが、私の仕事ですから。……お疲れ様でした、レンくん」
初めて、彼が望んでいた「君」付けで、静かに呼びかけた。
レンは満足そうに口角を上げると、そのまま深い、深い眠りへと落ちていった。
静まり返った楽屋。
凛は、眠っている推しの寝顔を見つめながら、自分の指先を見つめた。
自宅という密室を飛び出し、戦場の裏側で共有した、この時間。
それは間違いなく、「お客とファン」という境界線が、音を立てて崩れ始めた瞬間だった。
だが、その平穏を破るように、楽屋のドアが勢いよく開いた。
「おーいレン! 打ち上げどうす……る……って、え?」
そこに立っていたのは、グループのリーダーであり、グループ随一の「鋭い観察眼」を持つメンバー、カイだった。
ベッドに横たわる半裸のレンと、その傍らに座り、彼の手をマッサージしている三十五歳の女性。
凛の脳内に、最大級の「終了」の文字が躍った。




