第7話:戦場のカーテンコール、楽屋の緊迫
華やかなスポットライト、腹に響く重低音、そして鼓膜を揺らす数万人の歓声。
それが『ルミナス・レイ』のセンター、レンが生きる世界だ。
しかし、その光り輝くステージを一枚隔てた「裏側」は、怒号と汗、そして極限の緊張が支配する、文字通りの戦場だった。
三十五歳の佐藤凛は今、その戦場の真っ只中に立っていた。
場所は都内最大級のイベントホール。その一角にある、関係者以外立ち入り禁止の『VIP用個人楽屋』。
凛の手元には、使い慣れたオイルではなく、即効性の高い冷却ジェルと、筋肉を固定するためのキネシオロジーテープが並んでいる。
(信じられない……。私が、ライブ当日の、この時間に、楽屋にいるなんて!)
ことの始まりは、三時間前のことだった。
勤務先のセンターを通じて、事務所から「至急、スタッフを一名派遣してほしい。場所はライブ会場」という、異例中の異例の要請が入ったのだ。
本来、会場への出張は安全上の理由から断るケースが多いのだが、先方からの強い要望、そして何より「レン様からの指名」という言葉に、凛のプロ根性とオタク魂が同時に火を噴いた。
「佐藤さん、来てくれた……! マジで、救われたよ……っ」
楽屋のソファで、レンが苦悶の表情を浮かべていた。
衣装のジャケットを脱ぎ捨て、黒いインナー姿の彼は、肩で荒い息をついている。
開演まで、あとわずか一時間。
「レン様。……状況を。どこを痛めましたか?」
凛は、ファンとしての動揺を完璧に押し殺し、戦場に臨む軍医のような鋭さで問いかけた。
「……腰。リハーサルの最後のジャンプで、ちょっと……変な着地しちゃって。動けないわけじゃないけど、このままだと本番のキレ、絶対に出せない。……マネージャーは『構成を変えよう』って言ってるけど、僕は嫌なんだ。今日、新曲の初披露なんだよ。完璧な形で、みんなに見せたいんだ」
レンが、悔しそうに拳を握りしめる。
その瞳には、自宅で見せていた「陽気な年下の男の子」の面影は微塵もない。
そこにあるのは、プロの表現者としての、狂気にも似た執念。
凛は、その瞳の輝きに圧倒されそうになりながらも、迷わず彼の腰に手を置いた。
(……っ。固い。冷たいわ。これは……極度の緊張と、打撲による一時的な麻痺ね)
凛は、即座に脳内のスイッチを切り替えた。
今の彼に必要なのは、時間をかけた癒やしではない。
アドレナリンを呼び覚まし、痛みを感じさせないほどに筋肉を強制的に「覚醒」させる、荒療治だ。
「レン様。……今から行う処置は、非常に強い痛みを伴います。ですが、五分後には、あなたの体は羽が生えたように動くはずです。私を信じられますか?」
レンは、痛みに耐えながらも、凛をじっと見つめ返した。
「……当たり前じゃん。佐藤さんに任せてダメなら、もう諦めがつくよ。……やって」
その言葉を受け、凛の指が動いた。
指先を尖らせ、腰椎の脇にある深層筋、大腰筋のトリガーポイントへ、狙いすました一撃を叩き込む。
「――――あ、ぐううっ!?」
レンが、声を押し殺してのたうち回る。
凛は容赦しない。
筋肉の束を無理やり引き剥がし、神経の伝達を再起動させる。
彼女の指は、もはや「マッサージ師」のそれではない。壊れた精密機械を修理する、冷徹なエンジニアのそれだった。
「吐いて! 呼吸を止めると逆効果です! もっと深く!」
「はぁ、ふぅ、はぁ……っ! 痛い、痛いよ佐藤さん! 骨が折れる!」
「折れません。筋肉が驚いているだけです。……次、いきますよ」
凛は、レンの身体を無慈悲に、けれど確実に作り替えていった。
腰から背中、そしてふくらはぎ。
ステージで飛ぶため、回るため、そしてファンに夢を見せるための筋肉に、命を吹き込んでいく。
楽屋の外からは、会場に詰めかけたファンたちが振るペンライトの地鳴りのような歓声が漏れ聞こえてくる。
その声の主たちは、誰も知らない。
今、この薄暗い楽屋で、一人の三十五歳の女性が、必死に彼らの王子様を繋ぎ止めていることを。
「……よし。立ち上がってください。そのまま、三回その場で足踏みを」
凛の指示に従い、レンがおずおずと立ち上がる。
彼は一度、腰を回し、それから力強く床を蹴った。
「…………え。……動く。……痛くない」
レンの顔に、いつもの、けれど今までで一番輝かしい笑顔が戻った。
「嘘だろ。……魔法どころじゃない。佐藤さん、君、本当に何者なの? 奇跡だよこれ!」
「奇跡ではありません。レン様が、今日までこの筋肉を鍛え続けてきた結果です。……さあ、行ってください。ファンが、あなたのことを待っています」
凛は、施術道具を素早く片付け、一歩下がって深く一礼した。
その姿は、一人のファンの代表としてではなく、彼を支えるプロの裏方としての矜持に満ちていた。
レンは、衣装のジャケットを羽織り、鏡の前で前髪を整えた。
一瞬で、彼は「素の青年」から「国民的アイドル」へと変貌を遂げる。
扉に手をかけ、レンは一度だけ振り返った。
「佐藤さん。……特等席、用意させておいたから。僕が今日、どれだけ高く飛べるか、ちゃんと見ててよね」
彼が部屋を出ていった後、凛はその場に座り込んだ。
指は痺れ、全身は汗でぐっしょりと濡れている。
(……見たわよ。……もう、十分すぎるくらい、あなたの『魂』は見たわよ)
数分後。
会場の照明が落ち、一際大きな歓声が上がった。
凛は、渡された「関係者パス」を握りしめ、楽屋のモニターを見つめた。
画面の中では、ついさっきまで自分の下で悲鳴を上げていた男が、誰よりも美しく、誰よりも力強く、重力を無視して宙を舞っていた。
「……いいキレね。……最高の筋肉だわ、レンくん」
三十五歳、独身マッサージ師。
彼女の愛は、ついにステージの裏側まで到達していた。




