第6話:指先の温もりと、オレンジ色の魔法
推しの健康管理。
それは本来、マネージャーや栄養士の領分であり、一介の訪問マッサージ師が踏み込むべき聖域ではない。
分かっている。分かっているのだが、目の前で「味がしない」と呟きながら痩せ細っていく推しを放置できるほど、佐藤凛の心臓は毛深くはなかった。
(三十五歳の分別なんて、推しの肋骨が見えた瞬間にどこかへ飛んでいったわよ!)
三日後。再びレンのマンションを訪れた凛の鞄には、施術道具の他に、場違いなものが忍ばされていた。
「失礼いたします、レン様。……体調はいかがですか?」
「あ、佐藤さん。……んー、昨日よりはマシかな。でも、やっぱりちょっと身体が重いっていうか、地面に吸い込まれそうな感じがするんだよね」
出迎えたレンの顔色は、やはり芳しくない。
ハイブランドのスウェットに身を包んでいても、その中にある肉体が悲鳴を上げているのが、凛の「プロの眼」には透けて見えた。
リビングに入ると、いつものようにマッサージベッドをセットする。だが、凛は施術を始める前に、鞄から一つの小さな水筒と、紙コップを取り出した。
「……レン様。施術の前に、こちらを。水分の補給も重要ですので」
「え、何これ? 弊社の特別なサービス?」
「……私の『独断』です。口に合わなければ、残していただいて構いません」
差し出されたコップの中身は、鮮やかなオレンジ色をしていた。
凛が昨夜、スーパーで最も高い柑橘類を買い込み、自らの手で絞った果汁に、少量のハチミツと塩、そして胃腸に優しい生姜の絞り汁を加えた自家製のスポーツドリンクだ。
レンは不思議そうにそれを手に取ると、恐る恐る口をつけた。
凛は生きた心地がしなかった。もし彼が「いらない」と言えば、それは一線を越えたスタッフによる「迷惑な差し入れ」でしかない。最悪、クビの理由にもなり得る。
「…………っ、あ」
レンの瞳が、微かに大きく見開かれた。
彼はそのまま、喉を鳴らして一気にコップを空にした。
「……おいしい。……なにこれ、すっごい味がする。甘くて、酸っぱくて……なんか、喉が熱い」
「……そうですか。良かったです」
凛は、安堵のあまり膝の力が抜けそうになるのを必死に堪えた。
感覚が鈍っている時には、強い刺激ではなく、身体が欲している栄養素をダイレクトに届けるのが一番だ。ビタミンCとクエン酸、そして糖分。それは今の彼にとって、どんな高級フレンチよりも必要な「ガソリン」だったはずだ。
「佐藤さん……これ、魔法? 僕、さっきまで口の中がずっと砂みたいだったのに、今、ちゃんと美味しいって感じてる」
「魔法ではありません。ただの栄養学の応用です。……さあ、身体が温まったうちに始めますよ。今日は循環を良くすることに専念します」
レンは素直にベッドへ横たわった。
その背中に触れた瞬間、凛は驚いた。前回の「共犯者」という言葉を経て、彼の身体から余計な警戒心が消え、驚くほど柔らかく自分を受け入れているのが分かったからだ。
(信じられない……。これじゃ、まるで、私が何をしてもいいって言ってるみたいじゃない……)
凛は深呼吸をし、プロの指を動かし始めた。
今日は「剥がす」ような激しい手技ではなく、溜まった老廃物をリンパの流れに沿って流し出す、慈しむようなストローク。
凛の手のひらを通じて、レンの体温が上がっていくのが分かる。
「ねえ、佐藤さん」
「……はい」
「僕、昨日ね。配信で、また佐藤さんのこと言いそうになっちゃった」
凛の指が一瞬止まった。
「……我慢してくださったのですね?」
「うん。約束したもんね。『二人だけの秘密』だって。……でもさ、我慢するのが大変なくらい、僕、佐藤さんに感謝してるんだ。……誰にも言えない弱音とか、こういうボロボロの体とか。全部受け止めてくれるの、今は佐藤さんだけだから」
その言葉は、凛の胸の奥にある「オタクの魂」を真っ向から撃ち抜いた。
画面越しの王子様は、何百万人のファンに「愛」を与えている。
けれど、その王子様が、たった一人の自分に「救い」を求めている。
(……ズルい。ズルすぎるわよ、レンくん。そんなこと言われたら、私……プロ失格なことまでしちゃいそうになるじゃない)
凛は溢れそうになる涙を堪え、彼の項を優しく揉み解した。
「……光栄です。ですが、あまり私を神格化しないでください。私は、あなたが明日もステージで輝くための、ただの『道具』に過ぎないのですから」
「……道具、か。……道具にしては、手が、すっごく優しいけどね」
レンの声は、次第に眠りに溶けていった。
施術が終わる頃、レンの頬には久しぶりに健康的な赤みが戻っていた。
凛は彼が完全に眠りに落ちたのを確認してから、持参した水筒をキッチンの目立つ場所に置き、小さなメモを残した。
『明日も、起きたら一杯飲んでください。筋肉が喜びます。 佐藤』
マンションを後にした凛は、夜風に吹かれながら夜空を見上げた。
(あーあ。……完全に一線を踏み越えちゃったわね、私)
マッサージ師が客に飲み物を作るなんて、明らかな規約違反。
けれど、後悔はなかった。
三十五歳、独身。
彼女の「ガチ恋」は、もはや「推しを崇めること」から、「推しを地上に繋ぎ止めること」へと進化していた。
スマホを開くと、公式SNSが更新されていた。
『ルミナス・レイ、レン。明日、待望の新曲パフォーマンスを披露!』
凛は、その投稿にそっと「いいね」を押した。
「……明日のあなたのキレ、楽しみにしてるわよ。……私の『魔法』が、どれだけ効いたか見せてちょうだい」
二人の距離は、秘密とオレンジ色の魔法によって、また一歩、静かに縮まっていた。




