第5話:秘密の共有と、深夜の共犯者
推しとの間に「二人だけの秘密」ができる。
それは、ファンにとって銀河系が爆発するほどの衝撃を伴う事象であり、同時に「一線を越えてはならない」というプロの掟を根底から揺るがす猛毒でもあった。
数日後、再び訪れたレンの自宅。
今日の彼は、いつにも増して機嫌が良さそうだった。リビングのソファに深く腰掛け、凛が到着するなり、いたずらっ子のような笑みを浮かべて人差し指を口元に当てた。
「しーっ。佐藤さん、約束通り、昨日の配信では『マッサージ』の『マ』の字も出さなかったよ。……えらいでしょ?」
「……左様でございますか。ご協力ありがとうございます」
凛は心の中で「当然でしょうが!」と叫びつつ、いつもの営業スマイルを維持した。
だが、レンの「えらいでしょ?」という問いかけには、三十五歳の女性を困惑させる特有の甘やかさがある。彼はそのまま立ち上がり、凛に顔を近づけて声を潜めた。
「だからさ。これ、お互い内緒ね。……佐藤さんが僕を『神の手』で癒やしてくれてること、世界中で僕だけが知ってる秘密にする。……なんか、共犯者みたいでワクワクしない?」
共犯者。
その言葉が、凛の脳内にバラ色の爆風を巻き起こす。
(共犯者!? 待って、何そのパワーワード。二十代前半のアイドルが、十五近く年上のマッサージ師に使う言葉じゃないわよ! 尊い。尊すぎて逆に心臓が止まりそう……!)
しかし、凛は震える手でマッサージオイルのボトルを握りしめ、冷徹な仮面を貼り直した。
「……レン様。言葉選びにご注意ください。私は単なる契約スタッフであり、秘密を共有するような間柄ではございません。施術を始めます。うつ伏せに」
「あはは、また冷たいなー。でも、その徹底してるところ、本当に信頼できるんだよね」
レンは軽やかにマッサージベッドへ横たわった。
今日の彼の背中は、前回の「お仕置き」が効いたのか、あるいは意識して姿勢を正していたのか、以前ほどの硬さはない。だが、その代わりに凛を襲ったのは、別の問題だった。
「……レン様。……少し、お痩せになりましたか?」
オイルを広げる手のひらを通じて、彼の肋骨のラインが以前より鮮明に伝わってくる。
筋肉の張りはあるが、その下の脂肪層が薄くなりすぎている。指先に伝わる彼の生体反応が、「過剰な疲労」と「栄養不足」を静かに告げていた。
「あー……分かる? さすが佐藤さん。実はさ、来月の新曲発表に向けて、食事制限と深夜までのダンスレッスンが重なってて。……正直、最近ちょっとだけ、味がしないんだよね。何食べても」
枕に顔を埋めたまま、レンがポツリと漏らした。
その声には、配信で見せる「陽気なレンくん」の影はなかった。
二十三歳の青年が背負う、あまりにも巨大な看板の重み。何百万人もの期待に応え続け、常に「完璧な王子様」であり続けなければならない孤独が、その薄くなった背中に凝縮されている。
(味が、しない……?)
凛の胸が、鋭い痛みで締め付けられた。
ファンとして、彼が美しく痩せていくのを「ビジュアルが神がかっている」と手放しで喜んでいた自分を殴り飛ばしたくなる。
「……レン様」
「ん?」
「本日は、予定を変更して、自律神経を整えるための長めのヘッドマッサージと、呼吸を深くするための胸郭周りの施術を重点的に行います」
凛の声から、事務的な冷たさが消えていた。
それは、三十五歳の「一人の大人」として、目の前の若者を守りたいという切実な響きだった。
「……いいの? 今日のメニュー、確か『肩こり集中』だったよね」
「お客様の状態に合わせて最適な施術を行うのが、プロの仕事です。……口を閉じて、鼻でゆっくり呼吸をしてください。私がリードします」
凛は、彼の後頭部に優しく指を沈めた。
髪の間に指を滑らせ、凝り固まった頭皮をじっくりと、けれど確実に解していく。
レンの呼吸が、次第に深く、一定のリズムを刻み始める。
「……あ……。佐藤さんの指、あったかい……」
レンが、うわごとのように呟いた。
普段、何千人ものファンに囲まれ、華やかな照明を浴びている彼にとって、この静かな部屋での「温かい手のひら」という原始的な触れ合いが、どれほどの救いになっているか。
凛はそれを、彼の筋肉が次第に柔らかく解けていく感触で理解した。
(頑張ってるわね。……偉いのは、私のほうじゃなくて、あなたのほうよ)
心の中だけで、凛は彼を抱きしめるように呟いた。
施術が始まって一時間。
レンの全身から力が抜け、深い眠りの淵へと沈んでいくのが分かった。
凛は、彼の首筋にあるリンパを優しく流しながら、その白く細い首を見つめた。
もし、自分が「ただのファン」だったら。
今すぐこの寝顔を写真に収め、SNSで共有して、世界中のファンとこの「尊さ」を分かち合いたいと思っただろう。
けれど、今の自分は「共犯者」なのだ。
彼の疲れを知り、彼の弱音を預かり、彼の肉体を物理的に支える、ただ一人の裏方。
その優越感は、どんなスパチャよりも、どんな最前列のチケットよりも、凛の心を深く満たした。
(……バレちゃ、ダメね。……絶対に)
凛は、眠っているレンの耳元で、聞こえないほどの小さな声で囁いた。
「……おやすみなさい、レン様。……明日も、あなたが一番輝けますように」
その時、眠っているはずのレンの手が、シーツの上で微かに動き、凛の指先に触れた。
偶然か、それとも無意識の甘えか。
ほんの一瞬の、けれど確かな接触。
凛は、爆発しそうな心臓を片手で押さえ、真っ赤になった顔を伏せた。
三十五歳、独身マッサージ師。
推しの専属という立場は、彼女の理性を少しずつ、けれど確実に溶かし始めていた。
施術を終え、玄関へ向かおうとした凛の背中に、眠りから覚めきらないレンの声が届いた。
「……佐藤さん。……次も、絶対、来てね。……約束だよ」
その言葉は、どんなファンサよりも重く、凛の魂に刻まれた。




