第4話:深夜の『神』降臨
推しの専属(仮)になる。
それは、ファンにとっての桃源郷であると同時に、正体がバレた瞬間にすべてが終わる、抜き差しならない地獄の入り口でもあった。
数日後。凛はいつも通り、深夜二時の儀式――推しの配信チェックを行っていた。
部屋の明かりを消し、ブルーライトカットの眼鏡をかけ、スマホを手に取る。画面の中では、レンが新作のアクションゲームをクリアし、達成感に満ちた顔でコントローラーを置いたところだった。
「あー……。マジで疲れた。今のボス、初見殺しすぎでしょ。……ふぅ」
レンが椅子にもたれかかり、無防備に首を回す。ゴリ、という音がマイク越しに聞こえた気がして、凛は反射的に自分の指先を動かした。
(ダメよ、レンくん。その角度で首を鳴らしちゃ。頸椎に負担がかかるし、何より左の斜角筋がまた固まっちゃう……)
画面越しの診断。これはもはや、凛にとっての職業病であり、究極の「推し活」だった。
だが、次の瞬間。レンが思い出したようにレンズを覗き込み、いつもの陽気な笑みを浮かべた。
「あ、そうだ。みんなに報告。僕、ついに見つけちゃったんだよね。『神』を」
凛の指が止まる。嫌な予感が、心臓の鼓動を跳ね上げた。
「マッサージの人なんだけどさ。マジで凄いの。僕がどこ凝ってるか、触れる前に全部分かってんの。あまりにピンポイントで『そこ!』って場所を突いてくるから、僕、マッサージ中に昇天しかけたもんね。終わった後、自分の体が羽みたいに軽くてビビったもん」
コメント欄が、凄まじい濁流となって加速する。
『レンくんを昇天させた女、誰!?』
『待って、それ自宅に呼んでるってこと?』
『神指さん降臨? どこの店?』
「名前? あー、佐藤さんっていうんだけど。すっごい落ち着いてて、僕のことアイドルって知らないっぽくてさ。クラシックとか落語が好きって言ってた。……なんか、そういうプロって感じの対応、逆に燃えるよね。僕のこと『レン様』って呼ぶんだよ? 執事みたいじゃない?」
凛は、スマホを握りしめたまま、音の出ない絶叫を上げてベッドの上でのたうち回った。
やめて。
余計な個人情報を流さないで。
特定のキーワードを羅列しないで!
(「佐藤」なんてありふれた名字だけど! 「落語好き」で「三十代」で「レンのことを知らないフリをしている」マッサージ師なんて、特定班が動いたら一発じゃないの!)
案の定、SNSの裏側では早くも『レン マッサージ師 佐藤』という不穏なワードがトレンド入りし始めている。凛は血の気が引くのを感じながら、自分のX(旧Twitter)のアカウント――『レン君の鎖骨に住みたい凛』という、我ながら正気を疑う名前のアカウントを、震える指で即座に非公開設定にした。
(もし、あの時の『佐藤』が、この『鎖骨に住みたい凛』だとバレたら……。私の社会的な死だけじゃない。レンくんのキャリアに泥を塗ることになる!)
凛は一晩中、自分がこれまでに投稿した「レン君の腹筋を肴に酒が飲める」といった恥ずべきツイートを削除し続け、翌朝、一睡もできないまま仕事へと向かった。
* * *
二日後。再びレンの自宅を訪れた凛は、不眠による隈をコンシーラーで徹底的に隠し、前回以上に「鋼の表情(営業スマイル)」を完璧にセットしていた。
「失礼いたします。……レン様、少々お話がございます」
「あ、佐藤さん! いらっしゃい! 今日も待ってたよ。見てよ、昨日よりは肩マシでしょ? 佐藤さんのアドバイス通り、脇を締めてゲームしたからさ!」
レンはいつもの陽気なテンションで玄関まで出迎えてくれたが、凛の瞳は深海のように冷たい。彼女は施術の準備をしながら、静かに、けれど逃げ場のない圧力を込めた声で切り出した。
「レン様。……あまり、公の場でスタッフの話題を出されるのは、お控えいただけますでしょうか」
「え? あ、配信のこと? 見てたの?」
「……いえ。弊社に問い合わせが数件入りまして。どのような経路で情報が漏れたのかと、社内で問題になっております」
嘘である。会社にはまだバレていないが、この男には「危機感」という概念を骨の髄まで叩き込む必要がある。
「あー……ごめん。あまりに感動したから、つい自慢したくなっちゃって。佐藤さんが困るなら、次は内緒にするよ。……でもさ、それって、僕が佐藤さんのこと『特別』だと思ってるってことだからさ。許してくれない?」
レンがひょいと首を傾げ、覗き込むようにして謝る。
その、年下特有の「甘え上手」な仕草。数千万人のファンを溶かしてきた、殺傷能力の高い上目遣い。
その顔を、今、自分だけが独占している。
凛の鋼の営業スマイルが、内側からの熱波でピキピキと音を立てて剥がれそうになる。
(……許す。許すに決まってるでしょ! むしろ『特別』って言われて、私の内面のオタクが祝杯を上げてるわよ! でも、私は三十五歳のプロなの。あなたの健康とキャリアを守る壁にならなきゃいけないの!)
「……以後、お気をつけください。有名人としての自覚を持っていただかないと、私も安心して施術ができません」
「うわ、厳しいなぁ。……でも、そういうところも好きかも。プロって感じ」
無邪気な言葉のナイフが、凛の理性を削り取る。
彼女は深呼吸をし、マッサージベッドをセットした。
「それでは、施術に入ります。本日は……前回以上に『深く』解させていただきます。レン様が配信で仰っていた『昇天』という言葉を後悔なさるくらいには」
「え、ちょっと待って。その笑顔、なんか今、一番怖いんだけど!? お姉さん、怒ってる!? まだ怒ってるよね!?」
凛は返事の代わりに、オイルをなじませた両手をレンの背中に置いた。
ターゲットは、彼の不摂生な夜更かしの証である、左肩甲挙筋。
凛は容赦なく、全体重を乗せた親指をその「核」へと突き立てた。
「――っ、ぎゃあああああああ!? 痛い! 痛い痛い! 待って、これマッサージだよね!? 拷問じゃないよね!?」
レンの絶叫が高級マンションのリビングに響き渡る。
本来なら、アイドルの悲鳴はファンにとっての「悲劇」だ。しかし、今の凛にとっては、これこそが彼を健康へと導く「救済のメロディ」だった。
「息を吐いてください。体内に溜まった濁った空気を全部出すイメージです。……ほら、ここですよ。昨夜、長時間同じ姿勢でいたせいで、筋肉が泣いています」
「ひぃ、ふぅーっ……! ああ、でも、くる……! 痛みの後に、なんか、すごい熱いのが……!」
悶絶しながらも、レンの身体が次第に解けていく。
凛は、彼の背中に走る筋肉の繊維を、一本一本丁寧に指先でなぞった。
画面越しに見ていた彼の笑顔や、歌声。それらはすべて、この酷使された肉体という「土台」の上に成り立っている。
それを誰よりも近くで、直接的な感触として知っているのは、自分だけ。
(そうよ。私はあなたの専属マッサージ師。……そして、あなたの筋肉の、一番の理解者なんだから)
凛は、汗を流しながらも、どこか晴れやかな気分だった。
どれだけ彼が配信で「佐藤さん」を話題に出そうとも、この部屋で交わされる「痛み」と「癒やし」の対話だけは、誰にも奪えない真実だ。
「……はぁ、はぁ……。佐藤さん、本当、容赦ないね……。でも、なんか……癖になりそう」
「それは困ります。次は、もっと姿勢に気をつけてください」
施術を終え、タオルでレンの背中を拭き取る凛。
その指先は、さっきまでの攻撃的な鋭さを失い、慈しむような柔らかさを帯びていた。
レンは恍惚とした表情で、再び「羽が生えたみたいだ」と呟きながら眠りに落ちようとしている。
凛はそっと荷物をまとめ、寝息を立て始めた推しの後頭部を見つめた。
「……おやすみなさい、レンくん」
誰もいない玄関。
ドアを閉めた瞬間、凛は壁に寄りかかり、ずるずると座り込んだ。
手に残る、レンの筋肉の弾力。オイルの香りに混じった、彼の体温。
「……三十五歳。心臓が、持たないわ」
彼女の戦場は、今日も推しの背中の上にある。そして、その戦いはまだ、始まったばかりだった。




