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推しの肩甲骨を剥がすことになりました。〜営業スマイルの裏でガチ恋勢は限界を迎えている〜  作者: 寝不足魔王


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3/10

第3話:プロの領域、アイドルの本音


「……ふぅ。お疲れ様でした。本日の施術は以上となります」


 凛は、額ににじんだ汗を素早く拭い、手際よくオイルのボトルを片付けた。

 全身の凝りを解きほぐされたレンは、マッサージベッドの上で、文字通り「抜け殻」のようになっていた。


「…………生きてる……僕、今、生きてるわ……」


 枕に顔を埋めたまま、レンが微かな声を漏らす。

 先ほどまでのバキバキだった背中は、凛の「黄金の指先」によって適度な弾力を取り戻し、肌には健康的な赤みが差している。


「佐藤さん……お姉さん……。マジで、今まで受けたどのマッサージよりも凄かった。僕、今なら空飛べる気がするもん。翼生えてない?」

「残念ながら生えておりませんが、可動域は大幅に改善されているはずです」


 凛は努めて事務的に応じた。

 心臓はまだ、彼の無防備な背中を見ていた余韻でうるさく脈打っている。だが、今は「仕事終わりの後片付け」というルーチンに没頭することで、正気を保っていた。


 レンは、のっそりと身体を起こすと、寝癖で跳ねた髪を気にすることもなく、凛をじっと見つめた。

 その視線は、先ほどまでの「客」としてのそれよりも、ずっと熱を帯びている。


「ねえ、さっきの『専属』の話、本気なんだけど。僕、ツアーが始まると全国回るし、地方のホテルで体が死ぬこと多いんだよね。そういう時も、佐藤さんに来てもらえたら最高なんだけど」


 凛の動きが止まる。

 地方巡業。同行。同じホテル。

 脳内に「推しと行く一泊二日の全国ツアー」という極上の妄想が広がりそうになり、凛は慌てて自分の頬を(心の中で)叩いた。


「……身に余るお言葉ですが、私はあくまで派遣センターの社員です。特定の個人様との直接契約は、規約により禁じられております」

「あー、そっか。事務所を通せばいいのかな? うちのマネージャー、腕のいいスタッフならいくらでも金出すって言ってるし」


 レンはあっけらかんと言ってのける。

 その「金に糸目はつけない」という芸能人らしい豪快さと、凛を必要としているという素直な言葉。三十五歳の独身女性にとって、二十代の眩しい青年から「君が必要だ」と言われる破壊力は、たとえそれが「指の力」を求められているのだと分かっていても、凄まじいものがあった。


「ご提案は光栄ですが……まずは、センターを通してご指名をいただく形からお願いできればと。……それから、レン様」

「ん?」

「配信者としてもご活動されているとお聞きしました」


 凛は、昨夜の彼の「猫背」を思い出し、少しだけ踏み込んだ。


「椅子に座る際、無意識に左側に重心が寄っています。コントローラーを握る時、もう少し脇を締めるように意識してください。それだけで、肩の負担は三割減りますから」

「……え、待って。なんで僕のゲーム中の姿勢、知ってるの?」


 レンが目を丸くして固まった。

 凛の背筋に、氷のような冷や汗が流れる。


(しまった……! つい、さっきまで画面で見ていた情報を口にしちゃった……!)


「それは、あの……筋肉の付き方を見れば、どのような姿勢を長時間続けているか、プロなら分かります。左側の腰方形筋が特異に発達していましたから」


 嘘ではない。だが、半分は「昨夜の生配信の視聴記録」に基づいた知識だ。

 凛は冷や汗を隠し、あくまで「筋肉の専門家」としての顔を保つ。


 レンは感心したように自分の腰をさすった。

「すっげ。……やっぱり佐藤さん、僕のこと透視してるでしょ。……いいな、なんか、そういうの」


 レンがふっと、年相応の少年のように笑った。

 それは、カメラの前で見せる完成された笑顔ではなく、どこか寂しげで、けれど心を開いた相手にだけ見せるような、微かな「綻び」だった。


「僕の周りってさ、僕の『顔』とか『人気』しか見てない人が多いんだよね。でも、佐藤さんは僕の『中身』っていうか……『肉』? を見てくれてる気がする。それが、なんかすごく楽」


 肉。

 言い方はアレだが、彼にとってはそれが「飾らない自分」への肯定に聞こえたのかもしれない。

 凛は胸が締め付けられるような思いがした。

 彼がどれほどの重圧の中で、あの「王子様」を演じ続けているのか。

 それを癒やせるのが、ファンとしての歓声ではなく、一人の裏方による「物理的な手当て」なのだとしたら。


「……それが私の仕事ですから。どのような有名人であっても、筋肉は正直ですよ」

「ははっ、かっこいいこと言うね。決めた。僕、明日から毎日佐藤さんを指名するから」

「毎日来たら揉み返しが来ますので、三日は空けてください。……それでは、失礼いたします」


 凛は逃げるように荷物をまとめると、深々と頭を下げてリビングを後にした。

 

 玄関を出て、重厚なドアが閉まった瞬間。

 凛はその場にヘナヘナと座り込んだ。


「……無理。……絶対に無理……」


 顔を覆い、荒い呼吸を整える。

 手のひらには、まだレンの体温が残っている。

 鼻の奥には、彼が愛用しているシトラス系の香水の香りがこびりついている。

 

 三十五歳、独身マッサージ師。

 推しの専属になる権利を半分手に入れ、同時に「彼を知らない」という世紀の大嘘を抱えたまま、彼女の過酷な連載……もとい、日常が始まった。


 スマホを取り出すと、公式アプリのトレンドに『ルミナス・レイ、新曲MV公開』の文字が躍っていた。

 凛は震える指でそれをタップする。

 画面の中で、先ほど「痛い、痛い」と情けなく叫んでいた男が、嘘のような美貌でこちらにウィンクを投げかけていた。


「…………よし」


 凛は立ち上がった。

 営業スマイルではない、一人のオタクとしての、不敵な笑みを浮かべて。


「……揉んであげるわよ。あんたが引退する日まで、その肩、私が責任を持って剥がしてあげる」


 それが、彼女なりの「ガチ恋」の誓いだった。


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