第3話:プロの領域、アイドルの本音
「……ふぅ。お疲れ様でした。本日の施術は以上となります」
凛は、額ににじんだ汗を素早く拭い、手際よくオイルのボトルを片付けた。
全身の凝りを解きほぐされたレンは、マッサージベッドの上で、文字通り「抜け殻」のようになっていた。
「…………生きてる……僕、今、生きてるわ……」
枕に顔を埋めたまま、レンが微かな声を漏らす。
先ほどまでのバキバキだった背中は、凛の「黄金の指先」によって適度な弾力を取り戻し、肌には健康的な赤みが差している。
「佐藤さん……お姉さん……。マジで、今まで受けたどのマッサージよりも凄かった。僕、今なら空飛べる気がするもん。翼生えてない?」
「残念ながら生えておりませんが、可動域は大幅に改善されているはずです」
凛は努めて事務的に応じた。
心臓はまだ、彼の無防備な背中を見ていた余韻でうるさく脈打っている。だが、今は「仕事終わりの後片付け」というルーチンに没頭することで、正気を保っていた。
レンは、のっそりと身体を起こすと、寝癖で跳ねた髪を気にすることもなく、凛をじっと見つめた。
その視線は、先ほどまでの「客」としてのそれよりも、ずっと熱を帯びている。
「ねえ、さっきの『専属』の話、本気なんだけど。僕、ツアーが始まると全国回るし、地方のホテルで体が死ぬこと多いんだよね。そういう時も、佐藤さんに来てもらえたら最高なんだけど」
凛の動きが止まる。
地方巡業。同行。同じホテル。
脳内に「推しと行く一泊二日の全国ツアー」という極上の妄想が広がりそうになり、凛は慌てて自分の頬を(心の中で)叩いた。
「……身に余るお言葉ですが、私はあくまで派遣センターの社員です。特定の個人様との直接契約は、規約により禁じられております」
「あー、そっか。事務所を通せばいいのかな? うちのマネージャー、腕のいいスタッフならいくらでも金出すって言ってるし」
レンはあっけらかんと言ってのける。
その「金に糸目はつけない」という芸能人らしい豪快さと、凛を必要としているという素直な言葉。三十五歳の独身女性にとって、二十代の眩しい青年から「君が必要だ」と言われる破壊力は、たとえそれが「指の力」を求められているのだと分かっていても、凄まじいものがあった。
「ご提案は光栄ですが……まずは、センターを通してご指名をいただく形からお願いできればと。……それから、レン様」
「ん?」
「配信者としてもご活動されているとお聞きしました」
凛は、昨夜の彼の「猫背」を思い出し、少しだけ踏み込んだ。
「椅子に座る際、無意識に左側に重心が寄っています。コントローラーを握る時、もう少し脇を締めるように意識してください。それだけで、肩の負担は三割減りますから」
「……え、待って。なんで僕のゲーム中の姿勢、知ってるの?」
レンが目を丸くして固まった。
凛の背筋に、氷のような冷や汗が流れる。
(しまった……! つい、さっきまで画面で見ていた情報を口にしちゃった……!)
「それは、あの……筋肉の付き方を見れば、どのような姿勢を長時間続けているか、プロなら分かります。左側の腰方形筋が特異に発達していましたから」
嘘ではない。だが、半分は「昨夜の生配信の視聴記録」に基づいた知識だ。
凛は冷や汗を隠し、あくまで「筋肉の専門家」としての顔を保つ。
レンは感心したように自分の腰をさすった。
「すっげ。……やっぱり佐藤さん、僕のこと透視してるでしょ。……いいな、なんか、そういうの」
レンがふっと、年相応の少年のように笑った。
それは、カメラの前で見せる完成された笑顔ではなく、どこか寂しげで、けれど心を開いた相手にだけ見せるような、微かな「綻び」だった。
「僕の周りってさ、僕の『顔』とか『人気』しか見てない人が多いんだよね。でも、佐藤さんは僕の『中身』っていうか……『肉』? を見てくれてる気がする。それが、なんかすごく楽」
肉。
言い方はアレだが、彼にとってはそれが「飾らない自分」への肯定に聞こえたのかもしれない。
凛は胸が締め付けられるような思いがした。
彼がどれほどの重圧の中で、あの「王子様」を演じ続けているのか。
それを癒やせるのが、ファンとしての歓声ではなく、一人の裏方による「物理的な手当て」なのだとしたら。
「……それが私の仕事ですから。どのような有名人であっても、筋肉は正直ですよ」
「ははっ、かっこいいこと言うね。決めた。僕、明日から毎日佐藤さんを指名するから」
「毎日来たら揉み返しが来ますので、三日は空けてください。……それでは、失礼いたします」
凛は逃げるように荷物をまとめると、深々と頭を下げてリビングを後にした。
玄関を出て、重厚なドアが閉まった瞬間。
凛はその場にヘナヘナと座り込んだ。
「……無理。……絶対に無理……」
顔を覆い、荒い呼吸を整える。
手のひらには、まだレンの体温が残っている。
鼻の奥には、彼が愛用しているシトラス系の香水の香りがこびりついている。
三十五歳、独身マッサージ師。
推しの専属になる権利を半分手に入れ、同時に「彼を知らない」という世紀の大嘘を抱えたまま、彼女の過酷な連載……もとい、日常が始まった。
スマホを取り出すと、公式アプリのトレンドに『ルミナス・レイ、新曲MV公開』の文字が躍っていた。
凛は震える指でそれをタップする。
画面の中で、先ほど「痛い、痛い」と情けなく叫んでいた男が、嘘のような美貌でこちらにウィンクを投げかけていた。
「…………よし」
凛は立ち上がった。
営業スマイルではない、一人のオタクとしての、不敵な笑みを浮かべて。
「……揉んであげるわよ。あんたが引退する日まで、その肩、私が責任を持って剥がしてあげる」
それが、彼女なりの「ガチ恋」の誓いだった。




