第2話:黄金の指先、鋼の鉄面皮
三十五年の人生で、これほどまでに「プロ」である自分を呪い、同時に誇らしく思ったことはない。
目の前では、国民的人気アイドルであるレンが、リビングに備え付けられたマッサージベッド(事務所が用意したらしい超高級品だ)に、無防備にもうつ伏せになっている。
「あー、マジでどこでも好きにやっちゃって。今ならどこ揉まれても『神……』って言う自信あるから」
枕に顔を埋めたまま、レンがくぐもった声で笑う。
その背中は、画面越しに見ていたよりもずっと広く、そして薄い。ダンスで研ぎ澄まされた筋肉の上に、ほんの少しの脂肪も許さないストイックなアスリートの体躯だ。
(落ち着け、佐藤凛。目の前にいるのは『推し』じゃない。これはただの『肉の塊』……。いいえ、失礼ね。これは『多忙な二十三歳の、著しく血行の悪い背中』よ)
凛は深く、短く息を吐き出すと、手に取ったマッサージオイルを自分の掌で温めた。
このオイルの温もりは、施術者が落ち着いていることを患者に伝えるための重要なステップだ。たとえ心臓がドラムの連打のように鳴り響いていても、指先だけは「慈愛に満ちた聖母」でなければならない。
「失礼いたします……」
凛の指が、レンの肩甲骨のキワに触れた。
「……っ!?」
触れた瞬間、凛の指先に電流のような感覚が走る。
それはファンとしての歓喜ではない。プロとしての「驚愕」だ。
硬い。
想像を絶する硬さだ。
まるで、薄い皮膚のすぐ下にコンクリートの板でも埋め込まれているのではないかと思うほど、彼の筋肉は極限まで強張っていた。
(なに、これ……。どうやってこれで、あんなにしなやかに踊ってたのよ!?)
凛の脳内に、昨夜観た彼のダンスパフォーマンスがフラッシュバックする。
軽やかに跳ね、重力を感じさせないステップ。だがその裏側では、この悲鳴を上げる筋肉たちが、千切れんばかりの緊張で彼の身体を支えていたのだ。
それを知った瞬間、凛の中の「ガチ恋勢」としての煩悩が、急速に霧散していった。
「お客様……。いえ、レン様」
「んー? あ、呼び捨てでいいよ。レンで」
「……レン様。ここ、自覚はありますか? 左の僧帽筋から広背筋にかけて、鉄板が入っているようです」
「あはは、やっぱり? マネージャーにも『お前の背中、岩盤浴できそうだな』って言われるんだよね。最近、新曲の練習が深夜まで続いてるし、その後に配信でゲームしてっからかなぁ」
陽気に笑う彼の声には、自分の体をいたわる気配が微塵もない。
凛の胸の奥で、何かがカチリと音を立てた。
それは、三十五歳の女性が、無茶をする若者に対して抱く「お節介な母性」、あるいは「職人の矜持」だった。
「レン様。少し……いえ、かなり痛むかもしれませんが、しっかり解させていただきます。よろしいですね?」
「え? あ、うん。お手柔らかに……って、痛っ!? いたたたた! ちょ、待って、お姉さん!? 指が、指がめり込んでるって!」
凛は容赦なく、黄金の指先を彼の凝りの深淵へと突き立てた。
営業スマイルは崩さない。だが、その瞳には「絶対にこの凝りを根絶やしにする」という殺気にも似た執念が宿っている。
「呼吸を止めないでください。吐いて、吸って。はい、そのまま」
「ふぐっ、ひぃ、あー……! 痛い、けど、なんか……奥まで届いてる感じがする……っ!」
レンがシーツを掴み、指を白くさせて悶絶する。
本来、アイドルに対して行うマッサージとしては「やりすぎ」かもしれない。もっと優しく、リラクゼーションに徹するのが正解だろう。
だが、今の彼に必要なのは、そんな生ぬるい癒やしではない。明日もステージに立ち、ファンに夢を見せるための「物理的な修理」だ。
凛は体重を乗せ、親指の腹でゴリりと硬い結節を捉えた。
レンの背中がビクンと跳ねる。
「……っああああ! それ! そこ! お姉さん、そこだよ! うわ、すっご……!」
悶絶の声が、次第に法悦に近いものへと変わっていく。
激痛の後にやってくる、滞っていた血液が一気に流れ出す熱い感覚。
レンの呼吸が次第に深く、整い始めた。
(……よし。第一関門突破)
凛は額に浮かんだ汗を、腕で素早く拭った。
施術開始から三十分。
かつてこれほど集中したことがあっただろうか。
推しの体に触れているという事実は、もはや「仕事の精度を上げるための情報源」に過ぎなくなっていた。
この筋肉の揺らぎは、彼の努力の証。
この関節の硬さは、彼の孤独な練習の記録。
マッサージを通して、凛は画面越しでは決して知り得なかった「蓮見奏」という青年の実像に触れていた。
「……ねえ、お姉さん」
不意に、レンが少し落ち着いたトーンで口を開いた。
「佐藤さん、だっけ。……佐藤さん、マッサージのプロだね。僕、いろんなところ通ったけど、こんなにピンポイントで『そこだ!』ってところ当てられたの、初めてかもしれない」
「恐れ入ります」
凛は淡々と応じながら、次は腰の施術へと移行する。
「なんていうかさ……。お姉さんの指、僕のこと全部知ってるみたいで、ちょっと怖いかも。あはは、変な意味じゃないよ? 安心するっていうか」
その言葉に、凛の指が一瞬だけ止まりかけた。
安心する。
画面越しの王子様が、自分という「しがない一ファン」の技術に対して、そんな言葉を投げかけている。
(だめよ。調子に乗っちゃ。私はただの、出張サービス員なんだから)
「……お疲れが溜まりすぎているだけです。これだけ固まっていれば、誰が触れても分かりますよ」
「そっかなぁ? でも、僕、直感は鋭い方なんだよね」
レンが、ひょいと首を捻って、凛の方を覗き込んできた。
枕に押し付けられていた頬が少し赤くなり、髪はボサボサ。
けれど、その瞳は驚くほど澄んでいて、まっすぐに凛を見つめている。
「お姉さん、僕の専属になってよ」
「……はい?」
凛の手から、オイルのボトルが滑り落ちそうになった。
「いや、マジで! 事務所の紹介だとさ、毎回違う人が来るし、相性とかもあるし。佐藤さんなら、僕の体、全部任せられる気がする。……ね、ダメ?」
首を少し傾げ、子犬のような目で見上げてくる。
これだ。
これが、数千万人のファンを熱狂させ、財布の紐を緩ませ、狂わせてきた「レンの破壊力」だ。
凛の脳内で、理性の堤防がミシミシと音を立てる。
専属。
それはつまり、今後定期的に彼の自宅を訪れ、この神聖な筋肉に触れ続け、彼を独占する権利を得るということ。
オタクとしての「夢」が、現実という濁流となって押し寄せてくる。
(落ち着きなさい、佐藤凛……! ここで安請け合いしたら、それはもう『ファン』の一線を越えてしまうわよ!)
しかし、凛が口を開くより先に、レンはさらに追い打ちをかけてきた。
「あ、もしかして、僕のファンだったりする? 有名人だから緊張しちゃうかな」
陽気すぎる彼の問いに、凛は凍りついた。
バレたか。
否、彼は確信を持って言っているのではない。単なる冗談のつもりだろう。
ここでどう答えるかが、今後の二人の関係……「お客とファン」か、「プロと患者」かを決める分岐点になる。
凛は、全精力を注いで頬の筋肉を固定した。
そして、この日一番の、冷徹なまでの営業スマイルを繰り出す。
「まさか。……存じ上げてはおりますが、私はどちらかと言えば、クラシック音楽や落語を嗜む質でして。芸能界には疎いのです、申し訳ございません」
人生最大の嘘をついた。
昨夜、彼の配信に五千円のスパチャを投げた自分の過去を、心のゴミ箱へと放り込む。
「えー、マジで!? 僕のこと知らないの? ショックだなー、もうちょっと頑張らなきゃ」
レンはケラケラと笑い、再びベッドに顔を伏せた。
彼のプライドを適度に刺激しつつ、自分の正体を隠し通す。
凛は心の中で、自分に対して盛大な拍手を送った。
(これでいい。これで、私は彼にとっての『ただのマッサージ師』でいられる。……彼の体を守るための、一番近い他人でいられるんだから)
だが、凛はまだ知らなかった。
レンという男が、一度興味を持った相手に対して、どれほど執拗に、そして無邪気に踏み込んでくる人種であるかを。
施術が終わる頃、凛のポロシャツは冷や汗でぐっしょりと濡れていた。




