第1話:画面越しの推しと、玄関先の絶望
夜の静寂を切り裂くように、スマートフォンの通知音が鳴り響く。
時刻は午前二時。三十五歳の独身女性にとって、本来なら美容液の浸透を祈りながら眠りについているべき時間だが、佐藤凛にその選択肢はない。
暗い部屋の中、青白い液晶画面に映し出されているのは、一人の青年だ。
「あー……。今のコンボ、絶対入ったと思ったんだけどな。マジで悔しいわ」
画面の中で、乱れた髪を無造作にかき上げているのは、今をときめくアイドルグループ『ルミナス・レイ』のセンター、レン。
数時間前まで、地上波の音楽番組で「全人類の弟」というキャッチコピーと共に、キラキラとしたウィンクを振りまいていた男と同一人物だとは、熱狂的なファン以外には信じがたい姿だろう。
今の彼は、ゆるゆるの黒いスウェットに、少し眠そうな垂れ目。
公式の「ミステリアスな王子様」という設定はどこへやら、個人配信で見せる彼は、喋る、笑う、そしてよく動く。
「……レンくん、その姿勢はダメだって。右の肩甲骨が死んじゃうわよ」
凛は枕元で呟いた。手に持ったスマホの画面には、レンがゲームコントローラーを握りしめ、極端に前のめりになっている姿が映っている。
職業、訪問マッサージ師。
歴十年のベテランである彼女の目には、画面越しの推しが発する「筋肉の悲鳴」が見えてしまうのだ。
(ああ、また首を傾けた。胸鎖乳突筋がガチガチじゃない。ライブツアー中なのに、そんなにゲームしてて大丈夫なの? 明日も朝から撮影だって言ってたじゃない……!)
チャット欄には『レンくん可愛すぎ』『寝顔配信して』といった黄色い声が溢れているが、凛が打ち込むコメントは毛色が違った。
【レンくん、一回大きく深呼吸して。肩を後ろに回して。お願いだから】
もちろん、一秒間に数百件流れるコメントの中に、三十五歳マッサージ師の切実なアドバイスが留まるはずもない。
凛は溜息をつき、画面の中の推しに向かって指を伸ばした。液晶越しに彼の肩をなぞる。
触れられない。癒やしてあげられない。
それが、ファンとアイドルの絶対的な距離だ。
彼がどれほど身体を酷使していても、彼女にできるのは「スパチャ」という名の現金を投げ、画面越しに健康を祈ることだけ。
(いいの。私は一介のファン。彼が元気に笑っていてくれれば、それで……)
翌朝。
昨夜の夜更かし(推し活)の代償である軽い頭痛を感じながら、凛は仕事着である白のポロシャツに袖を通した。
彼女が所属するのは、都内でも指折りの富裕層向け訪問マッサージサービス『キュア・ハンズ』だ。技術はもちろん、徹底した守秘義務と接客態度が求められる。
出勤早々、管理アプリに「至急」のバッジがついた通知が飛び込んできた。
『VIP・新規指名。エリア:港区。場所:レジデンス・クオン。至急対応可能なスタッフを求む』
「レジデンス・クオン……?」
凛は思わず目を見開いた。そこは、名だたる芸能人や実業家が住むことで知られる、都内屈指の超高級マンションだ。
しかも「至急」ということは、かなりの緊急事態。ぎっくり腰か、あるいは極度の疲労か。
(プロとして、断る理由はないわね)
凛はすぐに応答ボタンをタップした。三十五歳、独身。守るべきものは推しの名誉と自分の貯金残高。フットワークの軽さだけは誰にも負けない。
一時間後。
凛は、厳重なオートロックを三回くぐり抜け、指定された最上階の角部屋の前に立っていた。
手には、使い慣れたマッサージオイルと、折り畳み式の施術用シーツ。
心臓の鼓動が、いつもより少しだけ速い。緊張はプロの証だと自分に言い聞かせ、彼女はインターホンを押した。
「失礼いたします。キュア・ハンズから参りました、佐藤です」
返事はない。だが、電子ロックが解錠される音がした。
ドアをそっと押し開けると、そこには驚くほど広い、けれど生活感の希薄なリビングが広がっていた。
窓の外には東京タワーが見える。だが、そんな景色よりも先に凛の目を引いたのは、ソファにうなだれるように座り込んでいる「影」だった。
「……あ、お姉さん? ごめん、開けっ放しで」
聞き覚えのある声。
いや、昨夜も、その前の晩も、それこそ三年前のデビュー当時から、耳が腐るほど聴き続けてきた声だ。
ゆっくりと顔を上げたその人物を見て、凛は呼吸を忘れた。
乱れた茶髪。
画面越しに見ていたよりもずっと高く、スッと通った鼻筋。
そして、今は苦悶に歪んでいる、あの「全人類の弟」の瞳。
「レン、くん……?」
プロとしての鉄面皮が、音を立てて崩落していく。
目の前にいるのは、紛れもなく本物のレンだった。
しかも、彼はかなり「陽気」なテンションで、自分の肩を回しながら、へらりと笑った。
「いやー、マジで助かった! 今朝起きたら首がピクリとも動かなくてさ。今日の午後から大事なダンスの稽古があるんだけど、このままだとロボットダンスしかできないところだったんだよね。お姉さん、神? 救世主?」
軽い。テンションが驚くほど軽い。
画面越しに見ていた「ミステリアスな王子様」はどこへ行ったのか。
そこにいたのは、極度の肩こりに悩まされる、ちょっと距離感の近い二十三歳の青年だった。
(嘘。待って。無理。死ぬ。本物? 今、私の網膜にレンくんが映ってるの? 同じ酸素を吸ってるの?)
凛の内面では、ガチ恋勢としての自分が絶叫し、のたうち回っている。
今すぐスマホを取り出して「推しの家なう」と投稿したい衝動(もちろん絶対にやらないが)と、そのまま跪いて拝みたい衝動が、凄まじい勢いで衝突している。
「あの、お姉さん? 顔、赤いけど大丈夫? 部屋、暑いかな」
レンが無邪気に顔を近づけてくる。
三センチ。彼の吐息が肌に触れる距離。
凛は、全力で奥歯を噛み締めた。ここで失神したり、鼻血を吹いたりしたら、即座にクビだ。それどころか、推しの仕事部屋に泥を塗ることになる。
凛は、三秒かけて深呼吸をした。
そして、十年のキャリアで培った「鋼の営業スマイル」を顔面に貼り付ける。
「……いいえ、問題ございません、お客様。本日は担当させていただきます、佐藤です」
「あ、佐藤さんね! よろしく! マジでバキバキだから、ガッツリやって。もう、なんなら骨から剥がしちゃっていいから」
レンはそう言って、躊躇いもなく自分のスウェットの襟元をグイと広げ、逞しい首筋を晒した。
白い肌。そこに浮かび上がる、ダンスで鍛えられた筋肉のライン。
だが、その表面は、凛が見立てた通り、悲鳴を上げるほどに固く強張っている。
(……この凝り。相当無理してるわね、この子)
その瞬間、ファンとしての「熱」が、マッサージ師としての「冷」に上書きされた。
彼女の指先が、職業的な使命感で微かに震える。
推しの身体を守れるのは、今、この部屋で私だけ。
「かしこまりました、お客様。……それでは、施術を始めさせていただきます」
凛は、業務用マッサージオイルのキャップを開けた。
それは、三十五歳の限界オタクが、推しの聖域(筋肉)へと踏み込む、運命のゴングだった。




