第28話:神の休息と三十六歳の炊事当番
佐藤凛、三十六歳。彼女が人生において最も研ぎ澄ませているのは、対象の「成分」を読み解く能力である。
プロの整体師として筋肉の組成を指先だけで把握するように、彼女は今、夕暮れのスーパーという名の戦場にて、鶏胸肉の鮮度を透視していた。
皮は徹底的に除去。
繊維の走り方を読み、加熱しても細胞を壊さず硬くならない厚さに正確にカット。
味付けは過剰な塩分を排除しつつ、レンの疲労した脳が「快楽」と誤認する絶妙なスパイス配合……。
見てなさい、レンくん。
私が作るのはただの食事じゃない。「経口投与するマッサージ」よ。
あなたの筋繊維一本一本が、そのアミノ酸の結合に歓喜の声を上げるような、究極の分子構造をその胃袋に叩き込んであげるわ!
三十六歳の知性が、エコバッグの中で震えるパプリカと共に激しく動揺していた。
これはマッサージの延長。食事は内側からのコンディショニング。
決して「推しに手料理を振る舞う」という、全オタクが前世で銀河を救うレベルの徳を積まなければ許されないはずの禁忌を、職権乱用という名の暴挙で犯しに行くわけじゃない。断じて。
だが、周囲の買い物客にはどう見えているのか。
献立に悩む新妻? それとも育ち盛りの息子を持つ献身的な母?
いいえ、私はただの「成分管理者」よ!
自意識過剰なパニックを必死に抑え込み、凛は都心の超高級マンションの一室へと向かった。
一週間後の、約束の夜。
レンの自宅キッチンに立つ凛の背後では、リハーサル帰りの二十三歳の至宝が、まるで餌を待つ大型犬のような距離感でうろついていた。
ステージでの圧倒的なカリスマ性はどこへやら、今の彼は、ただの「空腹を抱えた危うい青年」でしかない。
「ねえ、何作ってるの? すっごいいい匂い。……凛さんの匂いが、キッチンまで染み付いてきた」
不穏!
何その不穏で甘い言葉のチョイス!
私の生活臭をそんな風に「芳香」みたいに扱わないで!
バカ、バカレンくん。そんなの、包丁を握る手が狂って指先を供物にするしかないじゃない!
「レン様、お座り……いえ、ダイニングテーブルで待機してください。これは筋肉の修復を促す高タンパク低脂質メニューです。あなたのバルクを維持しつつ、内臓疲労を取り除くための、いわば『食べるメンテナンス』なんですから」
事務的な声を出す。プロの仮面を鉄壁にする。
だが、背中越しに伝わるレンの視線が、凛のうなじをじりじりと焼く。
鏡のようなシンクに映る自分の顔は、案の定、茹で上がったパプリカのように真っ赤だった。
「ふーん。……でもさ、凛さんがここにいると、ここが本当の自分の場所だって思えるんだよね。事務所のお弁当より、ずっと力が出る気がする」
何その「帰る場所」みたいな重すぎる執着!
あなたの場所はステージの上、あるいは一億人のファンの瞳の中でしょ!
キッチンに立つ私の、三十六歳の哀愁漂う背中に安らぎを見出さないで!
調理工程、過去最高密度の集中力。
凛は無言でブロッコリーを完璧な硬さに茹で上げ、鶏胸肉を「神の柔らかさ」で焼き上げた。
フライパンから立ち上る湯気と共に、凛の脳内は「推しの胃袋を掌握する」という古のオタクの夢に、理性が微塵切りにされそうになっていた。
完成したのは、彩り豊かな特製コンディショニング・プレート。
凛がそれをダイニングテーブルへと運ぶと、レンがその盤面を、獲物を狙うような熱を帯びた瞳で見つめてきた。
「わあ……すごい。これ、全部僕のために作ってくれたんだよね?」
キラキラとした、けれど逃がさないという強い独占欲を感じる瞳。
逃げ場はない。
三十六歳、佐藤凛。彼女は今、自らの手で作り上げた「愛情(という名の栄養素)」という名の毒薬を、推しの前に並べようとしていた。
ここから先は、栄養学の理屈では誤魔化しきれない、濃密な「共犯者の時間」が始まろうとしている。
向かい合って座る、二人きりの食卓。
地獄だわ。
ここは天国への階段に見せかけた、一歩踏み外せば社会的に抹殺される断崖絶壁よ。
凛は「毒見です。成分の最終確認ですから」と自分に言い訳しながら、同じメニューを一口だけ運ぶ。
対するレンは、凛が作った料理を、まるで割れ物でも扱うかのような手つきで、一口ずつ、噛み締めるように食べていた。
そんなに慈しむように食べないで!
それはただの鶏肉! アミノ酸の塊!
なのに何、この新婚生活の最終回を疑似体験させられているような、穏やかで残酷な空気は。
三十六歳の心臓には、この静寂は劇物なのよ!
「……おいしい。凛さんが作ってくれるなら、僕、一生世界一のアイドルでいられる気がする」
レンが一口食べるごとに、表情からアイドルの仮面が剥がれ落ちていく。
彼が漏らしたのは、凛が最も恐れていた「依存」の言葉だった。
待って。今、推しがさらっと重いこと言った。
何それ。私の存在が彼のプロ意識の根幹にまで食い込んでるってこと?
バカ、バカレンくん。そんなの、喉を通る鶏肉が砂の味になるじゃない。
「……レン様。期待感は消化液の分泌を助けますから。それは正常な身体反応です。私の個人的な影響ではありません」
必死の論理武装。だが、レンの追撃は止まらない。
彼は食卓越しに凛の手を、迷いなく握りしめた。
「凛さん。僕、他の誰にも、こんな顔見せないから。……凛さんだけが知ってればいいよ」
瞳で射抜かれる。
独占欲を隠そうともしない、熱い眼差し。
終わった。私の「スタッフ」という名の防護服が、完全に焼き切られたわ。
食事後の、胃腸を労わる軽いマッサージ。
レンは完全に力を抜き、凛の膝の上で安らかな吐息を漏らしていた。
指先が捉える彼の熱。それはもはや、管理すべき「筋肉」ではなく、守るべき「一人の男」の質量としてそこにあった。
私は彼を整えているんじゃない。
彼から「自立」を奪い、私なしではステージに立てない呪いをかけているんだわ。
剥がしきれない、執着。
佐藤凛、三十六歳。
彼女は今、恋愛よりも重く、信仰よりも深い「共犯関係」の契約を、沈黙の中で更新した。
もう二度と、ただの「ファン」に戻れる日は来ない。




