第27話:生活の体温と三十六歳の指先
佐藤凛、三十六歳。彼女が人生において最も忌むべき事態は、聖域への「不法投棄された生活感」の混入である。
プロの整体師として、相手の呼吸を数え、筋肉の反発を予測し、完璧な軌道で指を沈める。その管理された調和こそが彼女の安寧であり、推しであるレンを物理的に支えるための唯一の絶対防衛圏であった。
だが、休日の午前十時。至福の「推しの録画チェック」を切り裂くように鳴り響いた一本の電話が、その平穏を無慈悲に粉砕した。
受話器から漏れ聞こえてきたのは、泥を啜るような掠れた、か細い声。
「……助けて。凛さん、首が、一ミリも動かない……」
死刑宣告である。
一大事だ。これは、我が推し活史上最大の緊急事態だ。
凛は反射的に往診カバンを掴み、女子力を完全にドブに捨てた寝癖隠しの帽子を被ってタクシーへ飛び込んだ。
事務所を通さない緊急往診。本来なら規約違反で即刻クビもあり得る暴挙。だが、今の彼女を突き動かしているのはプロの義務感か、あるいは、推しという名の偶像が物理的なバグで静止することへの本能的な恐怖か。タクシーのメーターが上がる速度と共に、三十六歳の理性は急速に蒸発していった。
到着したレンの自宅。オートロックを解き、招き入れられた室内は、凛が知る「アイドルの城」とは無縁の、生々しい生活の残骸で溢れていた。
半分空いた炭酸のペットボトル。床に脱ぎ捨てられた左右バラバラの靴下。
そしてその中心で、ソファの上に不自然な角度で首を固定したまま、幽霊のように青ざめた二十三歳の青年がいた。
何これ? 推しがこの世に「排出」しているゴミ? 実質的に聖遺物じゃない。
待て、三十六歳の理性よ、今すぐ戻ってきて! 私はゴミを拝みに来たんじゃない、筋肉を救いに来たのよ!
「……失礼します。レン様、動かないで。今、私が状況を把握します」
凛はソファの横に膝を突き、レンの首筋に指を触れた。
熱い。驚くほどに熱い。
だがそれはステージの照明が作る熱ではない。布団の中でじっくり温められた「生きた人間の熱」だ。
近い。近い近い近い。手首の脈拍まで見えそうな距離だ。
至近距離で拝む推しのうなじは、もはや美術品を通り越して凶器に近い破壊力を有している。本来であれば、拝むだけで寿命が一年延びると確信できる神聖な光景。だが今、その肌は「生活」という名の汗と体温を帯びて、凛の鼻腔を直撃する。
「レン様、申し上げましたよね。枕の高さは頸椎の湾曲を損なわないものを選べと。このリビングの硬いソファで寝落ちするなど、言語道断です。あなたの筋肉は、私の管理物なのです。管理物としての自覚を持ってください!」
厳格な、氷のような叱責。だが、返ってきたのはレンの、小さく鼻を鳴らすような甘えた溜息だった。
「……だって、一人でいると、どうやって体を休めればいいか分かんなくなっちゃうんだもん。……凛さんがいないと、僕、自分のメンテナンスすらまともにできないみたいだ」
レンはうつ伏せのまま、凛の私服の裾を、力なく指先で手繰り寄せた。
待って。今、推しが私の服の裾を掴んだ。
しかも、凛さんがいないと、とか言った。
何これ、新手のファンサ。それとも、私の独身生活を遠回しに指摘してるのか。
バカ、バカレンくん。そんなの、仕事にならないじゃない!
凛は激しく動揺する心を、プロの指先に無理やり込める。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋。凛の指先だけが、レンの首筋の硬結を解いていく。
「……ねえ。凛さんの家も、こういう匂いするの?」
レンの掠れた問いかけに、凛の指が凍りついた。
自分の「生活」が推しの「生活」と混ざり合う恐怖。
終わった。私の逃げ場が、なくなったわ。
三十六歳、佐藤凛。彼女は今、推しの生活という名の解けない魔法を、自分自身の指先で完成させようとしていた。
カーテンの隙間から漏れる昼前の光が、埃のダンスを照らしている。
凛の指先は、レンの頚椎三番あたりの強固な硬結を、執念深く捉えていた。
指先から伝わる、トクン、トクンという一定のリズム。
これは私の鼓動? それともレンくんの心音?
ああもう、どっちでもいいわ! 今の私は、この神聖な筋肉を弛緩させるためだけに存在する、高性能な肉体粉砕機なのよ!
「……んっ、……そこ、……あ、……」
無防備な声を出さないで!
二十三歳の若さゆえの弾力と、アイドルの過労ゆえの凝り。その矛盾した感触が指を弾くたび、凛の脳内は「生きててよかった」と「今すぐ埋まりたい」の二極間でショート寸前だった。
格闘すること三十分。ようやくレンの首が、左右に滑らかに動き始めた。
「……あ、動く。……すごい、凛さん、やっぱり神様だ」
レンはゆっくりと上体を起こし、まだ夢の中にいるような潤んだ瞳で凛を見上げた。
そして、あろうことか。
彼はそのまま凛の太ももに頭を預け、再び横になったのである。
膝枕。
物理的な接触面積、過去最大。
死ぬ。これは確実に死ぬ。三十六歳の理性が、マリアナ海溝よりも深く沈んでいく音がした。
「レン様!? 何をして……! 起き上がってください、重力による血流の停滞が――」
「やだ。……この角度の方が、さっきの余韻が響いて気持ちいい気がする。……ねえ、凛さん。僕、凛さんの前じゃないと、ちゃんと『アイドル』でいなきゃって体が強張っちゃうんだ」
何それ。
何その「あなただけは特別」みたいな、オタクが一番言われたい殺し文句!
新手の詐欺なの? それとも私は今、高度な心理的トラップに嵌められているの!?
膝の上に、数千億の経済効果を生む頭部が乗っている。このまま標本にして持ち帰りたい欲望と、警察に自首すべきという社会人の理性が、私の脳内で関ヶ原の戦いを始めたわ。
「……お腹、空いちゃった」
さらなる暴君の要求。
凛は「規約違反です」「栄養管理士に連絡を」と唱えながらも、気づけばレンの家の冷蔵庫を開けていた。
卵、数個。しなびたネギ。以上。
……絶望的な生活能力だわ。
この子は私がいなきゃ、そのうち餓死か壊血病で滅びるんじゃないかしら。
凛は無言でネギを刻み、手早くオムレツを作り始めた。
台所に立つ凛の背後。レンがふらふらと歩み寄り、彼女の肩越しにフライパンを覗き込む。
「……いい匂い。……ねえ、それ、佐藤さんの匂い?」
首筋に、レンの吐息がかかった。
二十六話で彼に贈ったはずの、凛のオイルと同じ香りが、レンの体温に温められて自分に返ってくる。
皮肉だわ。
自分の仕掛けた罠に、自分自身が絡め取られている。
この匂いも、この温もりも、もう「仕事」という言葉では濾過しきれない不純物に満ちている。
食事を終え、帰り際。
玄関のドアノブを掴んだ凛の服の裾を、レンが子供のように小さく引いた。
「次、いつ来る? ……仕事とか、筋肉とか、そういうの関係なしでさ。……また、寝違えたら呼んでもいい?」
嘘でもいいから「いいえ」と言え、佐藤凛。
プロの整体師として、依存を許すな。
だが、彼女の喉から絞り出されたのは、あまりにも情けない、けれど事務的な声の形をした「降伏」だった。
「……筋肉の経過を、見に来ます。……また、一週間後に」
エレベーターの鏡に映る自分は、幽霊のように真っ白だった。
指先にはまだ、レンの首筋の熱が、そして膝には彼の頭の重みが残っている。
剥がれたのは彼の肩甲骨じゃない。
私の、ファンとしての「純潔」だわ。
佐藤凛、三十六歳。
彼女は今、推しの共犯者という名の、出口のない檻に足を踏み入れた。




