第26話:推しの香りは禁断の媚薬、あるいは職業病の末路
佐藤凛、三十六歳。彼女が人生で最も信頼し、かつ崇拝している五感は「触覚」である。
指先から伝わる筋肉の弾力、筋膜の癒着、体温の微細な変化。それこそが彼女の正義であり、推しであるレンを物理的に支えるための唯一の指標だった。
だが今、彼女はその「触覚」を脅かす、より原始的で暴力的な感覚――「嗅覚」という名の迷宮に迷い込んでいた。
(……一大事よ。これは、我が推し活史上最大の緊急事態だわ)
事の始まりは、数日前の施術中だった。
いつものようにレンの自宅で、彼の広背筋を丁寧に解していた凛は、ふと違和感を覚えた。レンの首筋から漂う、あの「推しの香り」が、いつもより微かだったのだ。
レンが長年愛用し、凛にとっては「この世で最も神聖な大気」として、吸い込むだけで寿命が一年延びると確信していたシトラス系の香水。それが、彼の肌から消えかかっていた。
「……あの、レン様。……香水、変えられましたか?」
凛は、努めて事務的な、健康チェックの一環を装った声で尋ねた。
「あ、気づいた? さすが凛さん。……実はさ、あの香水、廃盤になっちゃったんだって。ストックも使い切っちゃって、次はどうしようかなって思ってるところなんだよね」
レンは、うつ伏せのまま、枕に顔を埋めてケラケラと笑った。
廃盤。
その言葉は、凛の脳内で「世界遺産の消失」と同義の衝撃を持って響き渡った。
(廃盤……!? あの、レンくんの体臭と完璧なハーモニーを奏で、我々ファンの鼻腔を浄化し続けてきた、あの黄金比のフレグランスが!?)
凛の内心は、今すぐメーカーの本社へ乗り込んで再生産を直訴したい衝動に駆られていたが、三十六歳の理性がどうにか彼女をソファに踏み留まらせた。
「……左様ですか。……それは、残念ですね。……お肌に合うものが見つかると良いのですが」
「んー。……ねえ、だったらさ、凛さんが選んでよ」
「……はい?」
レンが、ひょいと首を捻って、凛を覗き込んできた。
「僕、自分の匂いってよく分かんないし。……でも、僕の体に一番触れてるの、凛さんじゃん? ……僕の肌の質とか、体温とか、一番知ってる凛さんが『これがレンに合う』って思う匂い、僕、それにするよ」
(…………は?)
凛の思考が、一瞬でオーバーヒートを起こした。
推しの匂いを、自分で決める。
それは、神がアダムとイブに命を吹き込むのと同じ、あるいは、推しという名の完成された芸術作品に、最後の一滴を垂らして仕上げる、禁断の儀式ではないか。
「……め、滅相もございません! 私はただのトレーナーです! 香水選びなんて、スタイリストさんやメイクさんの領分で……!」
「いいの。……僕は、凛さんが『いい匂いだな』って思ってくれる匂いを纏いたいんだ。……それじゃ、ダメ?」
二十三歳のアイドルの、無自覚(あるいは高度な計算)による上目遣い。
凛は、その破壊力に膝から崩れ落ちそうになりながらも、「……仕事ですから。……あくまで、リラクゼーション効果を高める一環として、調査させていただきます」と、震える声で答えるのが精一杯だった。
* * *
翌日から、凛の「地獄のフレグランス選定」が始まった。
彼女は仕事の合間を縫って、都内の百貨店の香水売り場を片っ端から巡った。
(……これはトップノートが爽やかすぎる。……レンくんの、あのダンスの時の野性味を殺してしまうわ。……こっちは甘すぎて、彼の透き通るような歌声に干渉する……。……もっとこう、ベースノートに重厚なサンダルウッドがありつつ、ミドルで彼の無邪気さを引き立てるフローラルが爆発するような……!)
膨大な数のムエット(試供紙)を嗅ぎすぎ、凛の鼻はもはや完全に「バカ」になりかけていた。周囲からは、無表情に、しかし恐ろしい執念で香水を嗅ぎ比べる三十六歳の女性として、不審な目で見られていたが、今の彼女には関係ない。
(レンくんの体温は、平均よりコンマ数度高い。……ということは、香りの拡散が早いから、ラストノートの持続性が高いものを選ばないと、ライブの後半で彼の『完成度』が落ちるのよ!)
最終的に、彼女は三つの候補に絞り込み、レンの自宅へと向かった。
レンは「おー、持ってきた?」と上機嫌で凛を迎え入れた。
「えーっと、まずはこれ。……ウッド系をベースにした……」
「……ねえ、紙じゃ分かんないよ。……僕の肌に、直接つけて試してみようよ」
レンはそう言うと、凛の手から香水のテスターを奪い、自分の手首にシュッと一吹きした。
そして、その手首を、凛の鼻先にぐいと近づけてきた。
「……どう? 凛さん、これ僕に似合う?」
(近い! 近い近い近い!! 手首の脈拍まで見えそうな距離よ!)
レンの体温で温められた香料が、凛の鼻腔を直撃する。
だが、凛はプロの矜持でそれを評価した。
「……少し、重すぎますね。……レン様の爽やかさが、このウッディノートに飲み込まれています。……次、これをお願いします」
二つ目。
「……ん、これは? ……なんか、凛さんの匂いがする」
三つ目のボトルを差し出そうとした凛の手が、ピタリと止まった。
「……はい?」
「これ。……凛さんがいつも使ってる、マッサージオイルの匂い。……ラベンダーと、あと、凛さんの家の匂いかな。……僕、この匂いが一番落ち着くんだ。……ねえ、凛さん、これ、香水にできないかな」
レンが、凛の首筋に顔を近づけ、クン、と鼻を鳴らした。
凛の全身の毛穴が、一斉に収縮した。三十六歳の理性が、耳の奥で「警告! レッドゾーンです!」とサイレンを鳴らしまくっている。
(……待って。……今、推しが私の首筋の匂いを嗅いだ? ……しかも、それが『一番落ち着く』って言った!? ……何それ、新手のファンサ!? それとも、私の加齢臭を遠回しに指摘してるの!?)
「……レ、レン様! 不謹慎です! 私の匂いなんて、ただの仕事道具の残香です!」
「いいじゃん、それがいいんだもん。……凛さんが隣にいる時の匂い。……マッサージを受けて、一番幸せな時の匂い。……僕、それをずっと纏っていたいんだ」
レンは、凛の狼狽えぶりを楽しむように、ふっと柔らかく笑った。
そして、彼は凛が選んできた三つの候補を脇に避け、自分のマッサージ用オイルの瓶を手に取った。
「決めた。……僕、新しい香水、買わない。……凛さんのオイルを、ほんの少しだけ耳の後ろにつけて過ごす。……そしたら、いつでも凛さんのマッサージを受けてる気分になれるでしょ?」
「……正気ですか!? アイドルが仕事用オイルを香水代わりにするなんて……!」
「いいの。……僕の体のこと、一番考えてくれてるのは凛さんなんだから。……凛さんの匂いをつけてれば、僕、どこにいても最強になれる気がするんだ」
レンは、凛の反論を遮るように、オイルを一滴、自分の指先に垂らすと、それを自分の耳の後ろに塗りつけた。
その瞬間。
狭いリビングの中が、凛の使い慣れた、けれどレンの体温と混ざり合うことで劇的に「官能的」に変貌した香りで満たされた。
(……終わった。……私の逃げ場が、なくなったわ)
自分の仕事の匂いが、推しの肌から漂う。
これでは、施術をしていない時でも、どこにいても、彼と「繋がっている」ことを意識せざるを得ない。
三十六歳、佐藤凛。
彼女は今夜、推しの「匂い」という名の解けない魔法を、自分自身の指先で完成させてしまったのだ。
「……凛さん。……ほら、いい匂いでしょ? ……もっと近くで嗅いでよ」
レンが、悪戯っぽく自分の首筋を凛に差し出してくる。
凛は、真っ赤な顔をしてオイルのボトルを抱きしめ、内心で絶叫した。
(……バカ! バカレンくん! ……そんなの、仕事にならないじゃない!!)
恋愛未満。
けれど、共有された香りは、二人の境界線を、より本能的で抗いがたい場所へと引きずり込んでいた。
凛の戦場は、推しの背中の上から、ついに「呼吸」の領域まで侵食されてしまったのである。




