第25話:鞄の中の戦場、アイドルの機転
佐藤凛、三十六歳。彼女が十数年のマッサージ師人生で培った最大のスキルは、指先の技術でも、解剖学の知識でもない。それは、どんなに動揺していても、顔の筋肉を一ミリも動かさない「鉄面皮」の術である。
だが今、その鉄面皮がかつてないほどの金属疲労を起こし、音を立てて崩壊しようとしていた。
場所は、ルミナス・レイの所属事務所、コンプライアンス室。
凛の目の前には、事務机を挟んで、例の「デジタル・クリーナー」こと東が、白い手袋を嵌めた手で凛の通勤用トートバッグを見つめていた。
「……佐藤さん。再三申し上げている通り、これは形式的なものです。専属契約の更新に伴う、リスク管理の一環としての『持ち物検査』。他意はありません」
「……形式的なものにしては、その手袋の白さが、さながら鑑識官のようで恐ろしいのですが」
凛は、膝の上で握りしめた拳に、全神経を集中させていた。
三十六歳の社会人。本来なら、鞄の中身を見られることくらいで、これほどまでに血の気が引くことはない。ハンカチ、ティッシュ、予備のストッキング、仕事用のオイル、解剖学の専門書。そこまでは「完璧なプロ」の持ち物だ。
しかし、問題はその奥だ。
トートバッグの内ポケット。そこには、今朝の通勤中に「今日の運勢を占うため」に引いた、レンの最新ランダムアクリルキーホルダー――通称『首かしげレン君・キラキラver.』が鎮座している。
さらに、その下には、ファンクラブ会報の最新号が、仕事用のクリアファイルに擬態して忍び込んでいる。
(……絶体絶命。もしあれが東さんの指先に触れた瞬間、私は『プロのスタッフ』から『潜入に成功した厄介オタク』へと、その定義を書き換えられることになる……!)
東の手が、凛のバッグのジッパーに掛かった。
ゆっくりと、まるで爆弾の信管を外すような慎重さで、バッグが開かれる。
凛の心臓は、ドラムの連打のように鳴り響き、耳の奥では「アバヨ、三十六歳のキャリア……」という幻聴が聞こえ始めていた。
「……ふむ。仕事用のポーチに、サポーター、消毒液。……ここまでは、資料通りですね」
東が、淡々と中身を検分していく。
いよいよ、内ポケットの「魔境」へと手が伸びようとした、その時。
「――おーい! 東さん、何してんの! 暇なの!?」
部屋のドアが、まるで特撮ヒーローの登場シーンのように勢いよく蹴破られた。
現れたのは、真っ赤な稽古着に身を包んだ、我らがルミナス・レイのセンター、レンである。彼は息を切らし、額に汗を浮かべたまま、一直線に事務机へと詰め寄った。
「レン様!? 練習中では……」
「練習なんかしてられるかよ! 僕の佐藤さんが、こんな暗い部屋に連れ込まれたって聞いて、生きた心地がしなかったんだからね!」
レンはそう言うと、東が手を伸ばしていた凛のバッグを、横からひょいと奪い取った。
「あ、レン様! それは今、検査の途中で……」
「いいじゃん、こんなの! 僕が保証するよ、佐藤さんの鞄の中なんて、僕を揉むためのオイルと、僕の体のデータが入ったタブレットしか入ってないって。……ね、佐藤さん?」
レンが、凛に向かってウィンクをした。
だが、そのウィンクはいつもの陽気なものではない。「今、助けてやるからな」という、戦友のような力強い合図だった。
レンは、凛のバッグの中身を覗き込むフリをしながら、素早く自分の手を中へ滑り込ませた。
そして、凛が「死」を覚悟した内ポケットから、あの『首かしげレン君』とファンクラブ会報を、驚異的な手捌きで抜き取ったのだ。
(……え。……嘘、今の動き、マジシャンなの!?)
「あー、ほら見てよ東さん! このバッグ、重いと思ったら、僕が昨日『これ、重り代わりに持って歩いてよ』って無理やり渡した、ダンベル代わりの重い水筒が入ってるだけだよ! 全く、佐藤さん、真面目に持ち歩いちゃって……かわいいところあるよね!」
レンは、自分の背後に隠した「オタクグッズ」を、そのままズボンのポケットにねじ込んだ。
東は、怪訝そうな顔でレンと凛を交互に見たが、トップアイドルの「自白」を前にしては、それ以上の追及は難しいと判断したらしい。
「……レン様がそう仰るのであれば、これ以上の検査は時間の無駄ですね。……佐藤さん。お騒がせしました。戻って結構です」
「……し、失礼いたします」
凛は、崩れ落ちそうになる足を叱咤し、レンに促されるようにして部屋を出た。
* * *
廊下の突き当たり、人のいない非常階段の踊り場。
凛は壁に手をつき、ようやく肺から熱い空気を吐き出した。
「……し、死ぬかと思いました。……レン様、あなた、どうして……」
「あはは! 凛さん、顔真っ白だよ。……三十六歳になって最初の大仕事が、これじゃ大変だよね」
レンはそう言って、ポケットから先程の『首かしげレン君』を取り出し、凛の目の前でひらひらと振った。
「これ。……僕の最新のキーホルダーじゃん。……しかもこれ、封入率 1パーセントのレアなやつだよ? 凛さん、運いいんだね」
「……っ、返してください! それは、その……偶然、カバンに飛び込んできただけで……!」
「嘘つけ。……会報まで入ってたよ? 凛さん、やっぱり僕のこと、相当好きだよね」
レンはそう言うと、キーホルダーを凛の手に戻さず、代わりに彼女の指先をそっと握りしめた。
「……いいよ、隠さなくて。……むしろ、カバンの中に僕がいるって思うと、なんか守られてるみたいで嬉しいし。……でもさ、凛さん」
レンが、凛の耳元に顔を近づけた。
静かな踊り場に、彼の少し速い鼓動の音が響く。
「……次からは、本物の僕を、もっと近くに置いておいてよ。……カバンの中のアクリルじゃなくて。……こうして、凛さんの隣にいる、生身の僕をさ」
レンは、凛の小指に光る、昨日の誕生日に贈ったリングを愛おしそうに撫でた。
三十六歳、佐藤凛。
彼女のプロとしてのキャリアは守られたが、その代償として、推し本人に「自分の持ち物」を把握されるという、オタクにとってある種のスキャンダルよりも恥ずかしい状況が確定した。
「……レン様。……今の台詞、三十六歳の心臓には負担が大きすぎます。……責任を取って、次のマッサージ、三十分延長しますよ」
「えー! 凛さんのマッサージなら、三時間でも延長してほしい! ……じゃあ、約束だよ。……今夜、僕の部屋で。……中身を見られちゃったお仕置き、たっぷりしてよね」
レンは太陽のような笑顔で走り去っていった。
一人残された凛は、小指のリングを見つめ、誰にも聞こえない声で呟いた。
「…………ガチ勢失格ね、私。……でも、助けられちゃうのは……やっぱり、最高に幸せだわ」
カバンの中の戦場は終わった。
だが、推しとの「共犯関係」は、三十六歳の新しい一ページを、より鮮やかに、より深く彩り始めていた。




