第29話:翼の解放と三十六歳のカウントダウン
佐藤凛、三十六歳。彼女は今、人生において最も厳粛で、かつ最も残酷な「聖戦」の最終局面を迎えていた。
場所はいつもの、生活感という名の毒素が充満したレンの自宅。だが、今日、彼女が向き合っているのは、ただの寝違えた二十三歳の青年ではない。数ヶ月前には触れることすら恐れ多かった、銀河の宝、世界を救うべき「推しの筋肉」そのものである。
かつては遠くから拝むことしか許されなかったその背中を、今は誰よりも深く理解しているという自負がある。
どの層に乳酸が溜まりやすく、どの筋膜が情緒不安定なスケジュールによって癒着を起こすのか。
凛の指先は、すでにレンの肉体という名の地図を完璧に書き換えていた。
(今日、私はあなたを完成させる。この癒着を剥がせば、あなたは私の指がなくても、自由に、高く、どこまでも空を飛べるようになるのよ。……ああ、自分の手で自分をお役御免にする死亡フラグを立てるなんて、整体師冥利に尽きるわね。いっそこのまま指先が灰になって消えてしまいたい!)
三十六歳の知性が、自身の存在意義を消去するような残酷な決意を固める。
凛は深く呼吸を整え、レンの肩甲骨の最深部、肋骨との隙間に残された「最後の癒着」へと指を沈めた。
熱い。
指先から伝わる、トクン、トクンという一定のリズム。
これは実質的な通信教育。いや、もはや細胞レベルでの交信よ。
三十六歳の理性が、この神聖な拍動に溶かされて、ドロドロの液体になって排水口へ流れていく音がするわ!
「……っ、……凛、さん……。……そこ、……くる」
名前を呼ばないで!
今の私は、あなたの可動域という名の未来を切り拓く、冷徹な執刀医なのよ!
そんな吐息混じりの声を浴びせられたら、私の指先が「剥離」じゃなくて「抱擁」にシフトしちゃうじゃない!
凛は全霊を込め、指先の圧を一点に集中させた。
逃がさない。この癒着こそが、彼を「人間」という重力に繋ぎ止めている最後の鎖。
彼女がその「聖域」の深淵に触れた瞬間――。
パキ、という。
現実の音か、あるいは精神的な鎖が弾ける幻聴か。
凛の指先を通して、レンの筋肉がかつてないほどの解放感をもって、翼のようにしなやかに浮き上がった。
剥がれた。
ついに、私は彼のすべてを剥がしきってしまった。
指先が捉える、圧倒的な可動域。
それは、彼女が愛した「最高の凝り」が消失し、ただの「完璧な神」がそこに降臨したことを意味していた。
三十六歳、佐藤凛。彼女は達成感という名の極上のスパイスが効いた、地獄のような喪失感に突き落とされた。
「……動かして、みてください。レン様」
自分の声が、幽霊のように震えているのが分かる。
レンはゆっくりと上半身を起こし、かつてない軽やかさで肩を回した。
その動作は、凛を置き去りにしてどこまでも高く飛んでいってしまいそうなほど、残酷なまでに美しく完成されていた。
静まり返ったリビングに、レンが肩を回す衣擦れの音だけが、やけに鮮明に響いていた。
本来の可動域。完璧な肉体。
それは整体師としての凛が勝ち取った、最大級の勝利の証だ。
だが、その勝利は、同時に「用済み」という名の終焉を意味するはずだった。
凛は震える手で、使い古した往診カバンのファスナーを閉めた。
一秒でも早く、この場を去らなければならない。
そうしなければ、三十六歳の理性が「行かないで」と叫びながら、彼の足首に縋り付いてしまう。
「……おめでとうございます、レン様。これで、私の施術はすべて完了です。あなたはもう、自分一人で最高のコンディションを保てるはず。……今日で、私の役目は終わりです」
かっこいい。私、今、世界で一番プロフェッショナルな背中を見せてるわ。
エレベーターに乗った瞬間に嗚咽を漏らして膝から崩れ落ちる準備はできてる。
だから早く、早く私に「お疲れ様」と言って、永遠に解放して!
凛が立ち上がり、玄関へ向かおうとしたその瞬間だった。
背後から伸びてきた強く、熱い手が、彼女の手首を逃げ場のない力で掴んだ。
「やだ。完成なんてさせないよ」
低く、甘く、けれど絶対的な拒絶を含んだ声。
凛は弾かれたように振り返る。そこには、アイドルの仮面をかなぐり捨て、剥き出しの執着を瞳に宿した一人の男が立っていた。
何それ。
何その「一生責任取れ」と言わんばかりの、重すぎる愛の宣告!
バカ、バカレンくん! 筋肉が治ったら、普通は「ありがとうございました」で解散なのよ!
三十六歳の理性が、致死量の多幸感と恐怖で、完全に粉砕骨折した音が聞こえたわ!
「凛さんが剥がしてくれたこの体、僕が自分一人で管理できるわけないじゃん。……ねえ、凛さん。僕、凛さんがいないと、もう呼吸の仕方すら忘れちゃいそうなんだよ。……ねえ、責任取ってよ」
レンはそう言うと、凛の手を強引に引き寄せ、自分の耳の後ろ、あの日彼女のオイルを塗り込んだ場所に導いた。
そこにはまだ微かに、凛の日常と同じ香りが、彼の体温に温められて残っている。
「僕、一生、凛さんの前でだけは、こうやってボロボロになって甘えるから。……だから、凛さんも一生、僕の背中を、僕の生活を、僕の人生を、剥がし続けてよ。……いいでしょ?」
終わった。
私の、純粋な「ファン」としての人生は、今日ここで完全に幕を閉じたわ。
佐藤凛、三十六歳。彼女は今、推しの「聖域の番人」という、出口のない極楽の檻に閉じ込められた。
彼女は、掴まれた手を引き抜く代わりに、そっと、推しの肩甲骨を再びなぞった。
いいわよ。受けて立つわ。
あなたが世界の希望であり続ける限り、私はあなたの背後で、その肉体を、その人生を、完膚なきまでに支配し続けてあげる。
それが、ガチ恋勢が行き着いた、究極の「推し活」なんだから!
結ばれることはない。けれど、誰よりも深く、誰よりも生々しく、二人の日常は一つに溶け合っていく。
凛は、脳内で歓喜の断末魔(尊い!)を絶叫しながら、微笑んで推しの背中に再び手を置いた。
二人の「日常」という名の魔法は、今、ここから永遠に始まろうとしていた。




