第23話:三十六歳の生誕祭、逆転の指先
三十六歳。
それは、四捨五入というささやかな抵抗が完全に無効化され、マッサージ師としては脂が乗り、一人のオタクとしては「推しの健やかな成長こそが我が長寿の秘訣」と、もはや悟りの境地に達する年齢である。
佐藤凛にとって、本日の目覚めは複雑だった。
三十五歳までは、まだ「三十代半ば」という言葉の避難所にいられた。だが、今日からは違う。言い逃れのできないアラフォーの入り口、三十六歳。
鏡の前で、いつもより念入りに目元の保湿を行いながら、凛は静かに自分へ言い聞かせた。
「いい、凛。三十六歳。分別のある大人よ。今日だって、レン様の事務所での定期メンテナンス。仕事があるだけで十分。ケーキもプレゼントも、推しが健康であればそれでいいの。……そう、それがオタクの『上がり』というものよ」
だが、現実はそんな彼女の「老成した覚悟」を、文字通り爆破してきた。
「――凛さん! 三十六歳の誕生日おめでとう!!」
事務所のトレーニングルームのドアを開けた瞬間、鼓膜を突き破らんばかりの咆哮と、派手なクラッカーの音が炸裂した。
凛は、顔面に降りかかった金色のキラキラ(片付けが大変なやつだ、と職業病が反射的に呟く)を払いのけ、目の前で特大のデコレーションケーキを掲げているレンを凝視した。
「……レン様。……心臓が止まるかと思いました。それに、ここ、精密機械やストレッチマットがある場所です。火気と生クリームは厳禁ですよ」
「もー、第一声がそれ!? ひどいなぁ、カイ君たちと一緒に朝から準備したんだよ? ほら、見て。特注の『筋肉ケーキ』! ……あ、嘘、普通に美味しいフルーツタルトだから安心して!」
レンの後ろで、リーダーのカイが「悪いな、佐藤さん。アイツがどうしてもって聞かなくて」と苦笑いし、末っ子のレオが「凛さん、三十六歳に見えないよ! 二十八歳くらい!」と、これまた危ういフォローを入れてくる。
「……レオ様。……三十五と三十六の間には、あなたが思っているよりも深く暗い、大人の事情という名の谷があるのですよ」
凛はそう答えつつも、内面のオタクは狂喜乱舞していた。
(尊い。……三十六歳の初日に、推しから『誕生日』という概念を叩きつけられるなんて。……でも、現実の私は今、キラキラを頭から被った仕事着姿。……死にたい、でも嬉しい。……感情の渋滞がひどい!)
「固いよ、凛さん! ……さあ、パーティーは後でやるとして。……今日は、僕から凛さんに特別なプレゼントがあるんだ。……こっち来て」
レンは、凛の手を強引に引き、部屋の隅にあるマッサージベッドへと誘導した。
凛は首を傾げる。
「……レン様。本日は、あなたの腰のメンテナンスの予定ですが」
「いいから! 今日は、僕が凛さんに『お返し』をする日なの。……さあ、佐藤凛様。……そのベッドに、うつ伏せになってください!」
「…………は?」
凛は、耳を疑った。
今、この二十三歳のトップアイドルは、何と言ったか。
「……僕が、凛さんをマッサージしてあげる。……毎日僕の体のために頑張ってくれてる『黄金の指先』を、今日は僕が癒やすの。……ね? ドラマの役作りでマッサージの手順、全部覚えたんだから。プロにお墨付きもらいたいんだ」
「お、断りします! 万が一、私の背中の筋肉があなたの高貴な指を痛めでもしたら、私はファンに刺されるどころか、自分の職業倫理で爆死します!」
「ダメ! これはセンター命令! ……さあ、凛さん、いいから!」
レンの陽気な、けれど一切の拒絶を許さない「わがまま王子」のオーラに圧され、凛はついに、まな板の上の鯉ならぬ、マッサージベッドの上のオタク(三十六歳)となった。
三十六年の人生で、これほどまでに落ち着かない時間があっただろうか。
自分がいつも使っている、仕事用の上質なタオル。その上に横たわると、不意に、レンの気配が背後に立ったのが分かった。
「……失礼しますね、佐藤さん」
耳元で囁かれた、低く、落ち着いた声。
マッサージ師を演じる「役者」としてのレンの声だ。
次の瞬間、温かい掌が、凛の肩甲骨の上に置かれた。
「――――ひゃんっ!?」
「あはは、何その声! 凛さん、くすぐったいの?」
「……い、いえ! ただ、驚いただけです……っ!」
凛は、顔を枕に押し付け、必死に内面の絶叫を抑え込んだ。
熱い。
レンの手のひらが、薄いポロシャツ越しに、ダイレクトに体温を伝えてくる。
(……待って。……あの子、本当に練習したの? ……指の置き方、圧のかけ方……。……意外と、ちゃんとしてる……!)
レンの指が、凛の慢性的な肩こりの中心部――僧帽筋の硬い部分を、ゆっくりと捉えた。
アイドル特有の、しなやかで柔らかい指先。けれど、ダンスで鍛えられた芯の強さが、じわじわと筋肉の奥まで響いてくる。
「……凛さん。……ここ、すっごい硬いよ。……いつも、僕のわがままに付き合って、変な姿勢で揉んでくれてるからでしょ。……ごめんね。……いつも、ありがとう」
揉み解すリズムに合わせて、レンの優しい言葉が降り注ぐ。
凛は、もう営業スマイルを維持する余裕なんてなかった。
(……ずるいわよ。……三十六歳になったばかりの女に、そんな真っ直ぐな感謝をぶつけながら、こんなに優しく触るなんて。……私、これじゃ、仕事とプライベートの境界線が……どっかに飛んでいっちゃうじゃない)
レンの指先が、首筋から耳の下へと滑っていく。
凛の身体が、抗いようのない心地よさと、爆発しそうな心拍数の狭間で揺れる。
恋愛未満。
けれど、この瞬間に流れている空気は、どんなドラマのラブシーンよりも濃密で、逃げ場のない熱を持っていた。
「……ねえ、凛さん。……僕のマッサージ、どう? ……少しは、『神様』のお役に立ててる?」
レンが、顔を近づけて囁く。
凛は、震える声でどうにか答えた。
「…………三、三十点です。……圧が逃げていますし、リズムも一定ではありません。……それに、何より……お客様が私に触れるなんて、マナー違反です……」
「あはは、相変わらず厳しいなぁ! ……でも、凛さんの顔、真っ赤だよ。……これ、合格ってことでいいよね?」
レンは満足そうに笑うと、最後に凛の肩をポンポンと叩いた。
その感触が、まるで魔法のように、凛の三十六年間分の疲れを(そして理性を)根こそぎ奪っていった。
マッサージが終わった後、凛はフラフラになりながらベッドから降りた。
レンは、そんな凛を眩しそうに見つめ、小さな箱を差し出した。
「これ。……本当のプレゼント。……凛さんの指、これからも僕が守るから。……使いすぎたら、いつでも言ってね」
「……ハンドクリームですか。ありがとうございます」
「それだけじゃないよ? ……ほら。……これ、僕が凛さんに『予約』を入れるための指輪。……三十六歳の凛さんも、四十歳の凛さんも、その先も。……ずっと、僕のそばで僕の体を揉んでてね。……約束だよ?」
箱の中にあったのは、小さなオレンジ色の石がついたピンキーリングだった。
レンは、凛の小指に強引にリングを嵌めると、悪戯っぽくウィンクをした。
三十六歳、佐藤凛。
彼女の誕生日は、推しからの「逆マッサージ」と「生涯専属予約の指輪」という、破壊力抜群のギフトによって、生涯忘れられない波乱の幕開けとなった。
(……この指輪、仕事中は外さなきゃいけないし……。……でも、外したあとも小指が熱いのは……きっと、気気のせいよね……!)
凛の心の中の叫びは、幸せな困惑と共に、トレーニングルームの金色のキラキラの中に溶けていった。




