第22話:夜の公園と、アイドルの非常識な甘え
「……え、待って。今、なんて言ったの? レンくん」
表参道の並木道。美和と別れた直後の凛は、スマートフォンの受話口に向かって、もはや悲鳴に近い声を漏らしていた。
耳元からは、数千万人のファンが卒倒するであろう、甘く、けれどどこか楽しげなレンの声が聞こえてくる。
『だから、凛さんの家の近所まで行くよって。マネージャーには「ちょっとジョギングしてくる」って言ってあるし。あ、もちろん変装は完璧だから大丈夫!』
「大丈夫なわけないでしょう! ジョギングで港区から私の家がある中野まで走ってくるつもり!? あなた、明日の朝から情報番組の生出演があるのよ!?」
『平気平気、タクシーで近くまで行って、そこから走るだけだから。……じゃあ、三十分後に、凛さんのアパートの近くの――あの、滑り台がパンダの形してる公園。そこで待ってるね。じゃあね!』
「ちょ、レンく――」
ツーツー、という無機質な切断音が響く。
凛は、夕暮れ時の街角で、石像のように固まった。
(……パンダの公園? あそこ、街灯が半分切れてて、地元の不良と野良猫しかいないような場所よ? そこに、今をときめく国民的アイドルがジョギング姿で現れる……?)
三十五歳の理性が「警察に通報すべきか、あるいは事務所にチクるべきか」と猛烈に演算を開始したが、最終的に導き出された答えは「とりあえず、着古したヨレヨレのTシャツを着替えること」だった。
* * *
三十分後。凛は、自分の年齢を呪いながらも、少しだけ気合の入った(と言っても、地味なパーカーにデニムだが)姿で、パンダ公園のベンチに座っていた。
あたりは暗く、ブランコが風に吹かれてキィ、キィと鳴っている。
怪しい。どう見ても不審者が出るシチュエーションだ。
そんな中、公園の入り口から、軽やかな足音が聞こえてきた。
「――凛さん! お待たせ!」
現れたのは、黒いウィンドブレーカーのフードを深く被り、黒いマスクをしたスレンダーな男だった。目元しか見えないが、その瞳の輝きだけで、凛の網膜は「推し確定」の信号を脳に送る。
「……レン様。……あなた、本当に……。もしこれで見つかったら、せっかく沈静化したスキャンダルが再燃どころか、爆発炎上しますよ」
凛は立ち上がり、周囲を厳重に警戒しながら小声で叱りつけた。
だが、レンはそんなお小言などどこ吹く風で、ベンチに座る凛の隣に、当然のように腰を下ろした。
「大丈夫だって。ほら、この辺、誰もいないし。……それより、凛さん。……電話、すぐに出てくれて嬉しかった」
レンがマスクを少しだけずらし、白い歯を見せて笑う。
その距離、わずか二十センチ。
昼間、美和と「知りすぎているがゆえの苦悩」を語り合ったばかりだというのに、実物を目の前にすると、凛の脳内解像度は再び「尊死」レベルまで急上昇する。
(……ダメ。……夜の公園にアイドルと二人きり。……これ、なろう系じゃなくて、乙女ゲームの重要イベントじゃない。……三十五歳の心臓には、高低差がありすぎて耳がキーンとなるわ!)
「……それで、急にどうしたのですか。……マッサージなら、明日伺う約束でしょう?」
「んー。……なんかさ。……今日の配信の後、みんなからの『佐藤さんと仲良いんだね』っていうコメント見てたら、急に佐藤さんに会いたくなっちゃって。……マッサージ師としてじゃなくてさ。……普通に、僕の凛さんに」
レンが、ベンチの背もたれに腕を回し、凛の方へと身体を傾けた。
ウィンドブレーカー越しに、彼の激しい運動による熱気が伝わってくる。
「僕の凛さん」という言葉が、夜の静寂の中に溶けて、凛の耳たぶを赤く染めた。
「……意味が分かりません。……私はあなたの私物ではありませんし、ましてや『普通に会う』ような友人でもありません」
「じゃあ、なんなの? ……公認のガチ勢? ……それとも、僕の体の一番の理解者?」
レンが、ふっと瞳を細めた。
その表情は、いつもの無邪気な年下のものではなく、一人の女性を追い詰める「オス」の顔をしていた。
凛の心臓が、喉から飛び出しそうになる。
「……それは……」
「……ねえ、凛さん。……僕、決めたんだ。……今回の騒動で、凛さんが僕のために必死になってくれたの見て、確信した。……僕、凛さんがいないと、もう満足に笑うこともできない。……だから、責任取ってよ」
レンの手が、凛のパーカーのフードを、不器用になぞった。
「……凛さんが僕のガチ勢なら。……僕も、凛さんのガチ勢になってもいいでしょ?」
(…………は?)
凛は、思考が停止した。
ガチ勢の、ガチ勢。
つまり、推しが自分の「推し」になるという、地動説が天動説にひっくり返るような、宇宙規模のパラドックスが発生した瞬間だった。
「……レン、くん……。……何を言って……」
「あはは! 凛さん、顔真っ赤。……かわいい」
レンは、突然いつもの陽気なトーンに戻ると、凛の肩にコテンと頭を預けた。
「……あー、落ち着く。……凛さんの隣って、マッサージ受けてる時みたいに、身体の芯から力が抜けるんだよね。……ジョギングの疲れ、もう取れちゃった」
凛は、呆れを通り越して、脱力した。
さっきまでの「オス」の気配はどこへやら、今の彼は、単に大好きな人に甘えている大きな子供のようだ。
けれど、その重みこそが、凛にとってはどんな甘い言葉よりも真実味を持って迫ってくる。
(……本当に、この子は。……人の理性をかき乱す天才ね)
凛は、ため息を吐き出しながらも、そっと手を伸ばした。
そして、ウィンドブレーカーの上から、彼の少し強張った肩を、優しく叩いた。
「……レン様。……甘えるのもいい加減にしてください。……冷えて筋肉が固まります。……ほら、早く帰って、お風呂に浸かって寝なさい。……明日の朝、情報番組で浮腫んだ顔をしてたら、承知しませんからね」
「……はーい。……佐藤先生の言う通りにします。……でも、帰り際、一分だけ……手を繋いでてよ。……そしたら、明日の生放送、最高の笑顔でウィンクしてあげるから」
レンはそう言って、マスク越しに凛の手を握りしめた。
その手のひらの熱さが、夜風の冷たさを完全に消し去った。
三十五歳、独身マッサージ師。
夜の公園での非常識な密会は、恋愛未満の甘い余韻を残したまま、一時の幕を閉じた。
翌朝。テレビの画面の中で、誰よりも輝く笑顔でウィンクを飛ばすレンを見て、凛はパンの耳を噛みしめながら、誰にも聞こえない声で呟いた。
「…………ガチ勢には、刺激が強すぎるのよ。……バカ」
二人の境界線は、もはやマッサージの指先だけでは測れないほどに、溶け合っていた。




