第21話:聖地巡礼の副作用、解像度が高すぎる日常
オタクにとって「聖地巡礼」とは、推しと同じ空気を吸い、同じ景色を眺めることで、その存在をより身近に感じるための神聖な儀式である。
……しかし。その「推し」の自宅に週三で通い、あまつさえその身体の隅々まで物理的に揉み解している人間にとって、聖地巡礼はもはや、ただの「答え合わせ」あるいは「職業病の再発現場」でしかなかった。
「ほら、凛! シャキッとしろ! 今日は『専属マッサージ師の佐藤さん』じゃなくて、一人の『レン担(レン推し)』として楽しむんだよ!」
日曜日の昼下がり。表参道にあるお洒落なカフェの前で、親友の美和が凛の背中をバシバシと叩いた。
ここは、レンが先日SNSに「ここのパンケーキ、マジで神」と写真をアップしたことで、一躍ファンの聖地となった場所だ。店の前には、レンのメンバーカラーであるオレンジ色の小物を身につけた女性たちが、長蛇の列を作っている。
「……分かってるわよ。……でもね、美和。私、このカフェのパンケーキを見るたびに、別のことが頭をよぎるのよ……」
「何よ、不吉な。せっかく並んでるんだから、もっとワクワクしなさいよ」
「……この店、椅子が低すぎるのよ。……レンくん、この低い椅子に座ってパンケーキ食べた後、私のところに来て『凛さん、なんか今日、腰の下の方が重いんだよねー』ってヘラヘラ笑ってたのよ。……あの腰痛の原因、ここの椅子だったのねって、今、パズルのピースが繋がっちゃったわ」
凛は、恨みがましげにカフェのテラス席を見つめた。
美和は呆れたように天を仰いだ。
「……あんた、重症だよ。……推しのプライベートの癖を、腰痛のデータで管理するんじゃないよ。怖いわ」
一時間ほど並び、ようやく二人は店内に案内された。
注文はもちろん、レンが絶賛していた『特製ベリーパンケーキ』だ。運ばれてきた一皿を前に、周囲のファンたちは「尊い……」「レンくんもこれ食べたんだよね」と感極まりながら、スマートフォンのシャッターを切っている。
凛も、一応はスマホを構えた。
だが、画面越しにパンケーキを見つめる彼女の脳内は、再び異常な方向へと加速し始めた。
(……この生クリームの量。……レンくん、甘いもの大好きだから、たぶん全部食べたわよね。……その後、一時間後にダンスレッスンがあったはず。……消化不良で胃が重くなって、大腰筋の伸びが悪くなってたのは、この生クリームの脂質のせいね。……あの子、本当に胃腸が強いんだか弱いんだか……)
「……凛。……今、パンケーキを『高脂質な凝りの原因物質』として見てるだろ」
「……バレた?」
「顔に出てるんだよ。……一口食べな。美味しいから」
凛は、一口、パンケーキを口に運んだ。
確かに美味しい。ベリーの酸味とふわふわの生地。
だが、噛みしめるたびに、自分の指先が覚えている「レンの体温」や「筋肉の弾力」が、不意にフラッシュバックしてくる。
隣の席では、女子大生風の二人組が楽しげに会話を弾ませていた。
「レンくんって、最近SNSでマッサージ師のこと認めたじゃん? ……なんか、ミステリアスな王子様設定だったのに、最近は『お姉さんに叱られたー』とか言って、急に人間味が出てきて、さらに好きになっちゃった」
「わかる! あの無防備な感じ、たまんないよね。……マッサージ師の人、三十五歳でしょ? ……なんか、お母さん代わりっていうか、安心して甘えられる存在なんだろうね。……いいなー、レンくんを甘えさせてあげられる立場って」
凛は、口の中のパンケーキを噴き出しそうになった。
お母さん。
安心して甘えられる存在。
(……違うのよ。……あの子、実際は甘えん坊なんて可愛いもんじゃないわよ。……マッサージ中に痛がって私のジャージを掴んだり、わざとらしく『凛さん、もっと優しくしてー』って低い声で囁いたりして、こっちの心臓を止めるような嫌がらせを平気でしてくる、小悪魔な二十三歳なのよ!)
凛の心の中で、一般ファンの抱く「レン像」と、自分の知っている「実像」が、激しく火花を散らす。
教えたい。でも教えられない。
この「解像度の差」こそが、現在の彼女を苦しめている元凶だった。
「……ねえ、美和。……私、もう純粋な『ファン』には戻れないのかもしれない」
カフェを出た後、凛は並木道を歩きながら、ポツリと漏らした。
「……ステージで歌ってる彼を見ても、筋肉の疲労度ばかり気になっちゃう。……SNSの投稿を見ても、その裏にある姿勢の悪さを指摘したくなっちゃう。……私、もう彼を『偶像』として見ることができないのよ」
美和は、そんな凛の横顔をしばらく見つめていたが、やがて優しく彼女の肩を叩いた。
「……いいんじゃない? ……偶像じゃなくなった分、あんたにとっては『一人の男』になったってことでしょ。……知りすぎてるってことはさ、それだけ彼が、あんたにだけ『本当の自分』を預けてるってことだよ」
「……預けてる……」
「そう。……世界中の誰も知らない、アイドルの裏側の痛みを知ってる。……それって、ファンとしては敗北かもしれないけど、一人の人間としては、完全勝利だよ。……自信持ちなよ、佐藤凛」
美和の言葉に、凛は少しだけ救われたような気がした。
確かに、自分はもう、客席からペンライトを振るだけでは満足できない身体になってしまったのかもしれない。
けれど、その代わりに、彼の「生身の温もり」を誰よりも知っている。
その時。凛のスマートフォンが震えた。
画面を見ると、レンからのメッセージが届いている。
『凛さん、お疲れ様! 今日のパンケーキ、実はちょっと胃もたれした(笑)。……明日のマッサージ、胃のツボ多めでお願いね。……あと、凛さんの声、今すぐ聴きたくなっちゃったんだけど、電話していい?』
凛は、そのあまりにも「タイミングが良すぎる甘え」に、盛大に顔を赤くした。
隣で画面を覗き見た美和が、「はい、完全勝利おめでとう。さっさと電話してこい!」と背中を蹴飛ばす。
(……ああ。……本当に、この子は。……どこまで私の人生をめちゃくちゃにすれば気が済むのよ)
凛は、並木道の端に立ち、震える指で通話ボタンを押した。
数秒後、耳元で聞こえてきたのは、世界中のファンが憧れる歌声ではなく――。
「……あ、凛さん? 出てくれた! ……あのさ、明日まで待てないから、今から凛さんの家の近くまで行っていい?」
という、最高にわがままで、最高に愛おしい、一人の青年の声だった。
三十五歳、佐藤凛。
聖地巡礼は失敗に終わったが、彼女の手の中には、聖地よりもずっと確かで熱い、推しの「真実」が握りしめられていた。




