第20話:三十五歳の反省会、友情はジョッキの泡に消えて
推しの専属マッサージ師になり、スキャンダルを推し本人の生配信で「ガチ勢公認」として突破する。
そんな、なろう系の小説でも「御都合主義が過ぎる」と叩かれそうな事態に直面した佐藤凛(三十五歳)に残された正気の保ち方は、ただ一つだった。
「――死にたい。今すぐこのジョッキの底に沈んで、炭酸と一緒に消えてなくなりたい」
都心から少し離れた、ガード下の年季の入った居酒屋。
凛は、目の前に置かれた大ジョッキを両手で掴み、うわごとのように繰り返した。対面に座る女性――高校時代からの親友であり、現在は別のアイドルグループを追う筋金入りのドルオタ、美和は、お通しの枝豆を器用に口へ運びながら、面白そうに目を細めた。
「まあ落ち着けって、凛。あんた、今やネット上じゃ『伝説の職人オタク』扱いだぞ。見てみろよ、このトレンド。『#レン君の健康を守り隊』に混じって、『#佐藤さんの指先に住みたい』とか言ってる奴まで出始めてるからな」
「やめて!! 掘り返さないで! 私の裏垢名まで全世界に特定されかかってるのよ!? どの面下げて明日からレン君の僧帽筋を揉めばいいのよ!」
「『どの面』も何も、本人が『ガチ勢だから採用した』って公言しちゃったんだから、もう開き直るしかないだろ。むしろ羨ましいわ。私の推しも、私の私生活の特定能力を評価してくれないかしら」
美和はケラケラと笑い、ビールを煽った。
凛は、机に突っ伏して呻いた。
そう、今回の騒動の最大の問題は、レンが凛を「救った」ことではない。
彼が凛の「狂気的な愛」を、「プロフェッショナルな献身」として全肯定し、あまつさえ『僕だけの佐藤さん』という、ファンを全員敵に回しかねない独占欲を全世界に垂れ流したことにある。
「……ねえ、美和。私、もうマッサージ師じゃない気がするの。……レン君、最近マッサージ中に『凛さんの指、あったかい』とか『凛さんがいないと、もう踊れない』とか、普通に言ってくるのよ。……あれ、ファンサ? それとも、年上の道具を労ってるだけ?」
「出たよ、三十五歳特有のネガティブ深読み。いいか凛、よく聞け。アイドルが深夜に自宅に女を呼んで、しかも自分の弱音を全部預けて、さらには全世界に向けて『この人は特別だ』って叫ぶんだぞ? それ、一般常識で言ったら『求愛』って言うんだよ」
凛はジョッキのビールを盛大に吹き出した。
「ぶっ――!? き、求愛!? 何言ってるの、相手は二十三歳の、全人類の弟よ!? 私は三十五歳の、ただの凝り取り名人よ!?」
「だから、そのギャップが萌えるんだろ。……あんたさ、自分の指の力を過小評価しすぎなんだよ。アイドルのバキバキの体を、物理的に解して、精神的に支えて、挙句に飯まで(お粥だけど)作って看病したんだろ? それ、もう実質ヒロインの仕事全部終わらせてるからな」
美和は、スマホでレンの例の会見配信のアーカイブを再生した。画面の中では、レンがキラキラした笑顔で「佐藤さんは僕の神様!」と叫んでいる。
「見てみろよ、このレン君の目。これ、仕事のパートナーを見る目じゃない。……完全に、自分を甘やかしてくれる『特別な居場所』を自慢してる子供の目だよ。……凛、あんた気づいてないかもしれないけど、レン君にとってのあんたは、もう『推し』と『ファン』の境界線を疾走して、とっくにゴールインしてるんだよ」
「……ゴール、イン……」
凛は、ボーッとした頭でその言葉を反芻した。
確かに、レンの距離感は最近おかしい。
マッサージが終わった後、わざとらしく「まだここが痛い」と言って凛の手を引き寄せたり、帰り際に「次はいつ来るの?」と、デートの約束を取り付けるような顔で聞いてきたりする。
(……でも、私は。……私は、彼のファンでいたい。……彼がステージで輝く姿を、一歩引いた場所で見ていたいのに)
「……凛、あんた贅沢な悩みだよ。……でもさ、分かるよ。……一度『関係者』になっちゃうと、もう純粋な『ファン』の視点には戻れないんだよね」
美和が、少しだけ真面目な顔で、凛のグラスに酒を注いだ。
「……でも、いいじゃない。……世界で一人だけ、彼に直接触れて、彼の本当の体温を知ってる。……それって、オタクにとっての最高の『上がり』だろ?」
「……上がり、かぁ……」
凛は、自分の指先を見つめた。
オイルの匂いが染み付いた、短く切り揃えられた爪。
この指先が、今日も彼の命を繋ぎ、彼の孤独を解かした。
凛は、残ったビールを一気に飲み干した。
「……決めた。……私、もう迷わない。……彼が望むなら、私は世界で一番『厄介で有能な専属スタッフ』になってやるわ。……恋だの愛だのは、彼の背中の凝りが完全に消えた後に考える!」
「ははっ、やっぱり脳筋だな、あんた。……よし、じゃあ今日はとことん飲むぞ! 明日の朝、あんたが二日酔いでレン君の背中に吐かない程度にな!」
居酒屋の喧騒の中、三十五歳の二人は、アイドルへの愛と、加齢による胃もたれという過酷な現実を肴に、夜更けまで笑い合った。
凛の心は、少しだけ軽くなっていた。
「ガチ勢」であることを世界にバラされ、推しから「特別」だと言われる。
そんなめちゃくちゃな状況も、親友の一言があれば、「人生の面白いハプニング」として笑い飛ばせる気がした。
帰り道。夜風に吹かれながら、凛はふと空を見上げた。
明日もまた、あのマンションへ行く。
そして、世界で一番わがままな王子様の、最高に愛おしい脊柱起立筋と対峙する。
(……待ってなさい、レンくん。……明日は、ナムルを残した罰として、腰のあたり、徹底的に『お仕置き』してあげるんだから!)
凛の足取りは、どこか軽やかだった。
友情とアルコール。そして、消えることのない推しへの執着。
三十五歳の佐藤凛の、本当の戦いは、ここから始まるのだ。




