第18話:共有される痛みと、センターの矜持
アイドルの世界において、嫉妬は毒にもなれば、パフォーマンスを研ぎ澄ます薬にもなる。
だが、今のレンが抱えているそれは、純度百パーセントの「独占欲」という名の猛毒だった。
「……佐藤さん。さっきから手が止まってるよ。レオのこと、考えてるんでしょ」
深夜のレンの自宅。リビングに置かれたマッサージベッドの上で、レンが不機嫌そうに声を漏らす。
凛は我に返り、彼の脊柱起立筋へとかけていた圧を強めた。
「……失礼いたしました。少し、考え事をしていただけです」
「考え事じゃなくて、レオのことでしょ。あいつ、最近ずっと佐藤さんの後を追いかけてるし。今日だって、練習の合間に佐藤さんに水渡してたの、僕、鏡越しに見てたんだからね」
レンは枕に顔を押し付けたまま、ぶつぶつと愚痴を続ける。
凛は、ため息を吐き出したいのを必死に堪えた。確かにレオは、前回の「スイーツ誘い事件」以来、凛のことを「信頼できるお姉さん」として慕い始めている。だが、凛が気にしていたのは、そんな微笑ましい懐き方ではなかった。
(……レオ様、今日のダンスのキレが少しだけ鈍かった。右の足首を庇っているような、あの違和感。……あれは、単なる筋肉痛じゃないわね)
凛は、目の前の「嫉妬の塊」である推しの背中を解しながら、プロとしての懸念を深めていた。レオはまだ十九歳。成長期特有の骨の伸びに、筋肉の柔軟性が追いついていない。ここで無理をさせれば、将来に響く大きな怪我に繋がりかねない。
「……レン様。少しだけ、真面目な話をしてもよろしいでしょうか」
「……何? 僕への愛の告白以外なら、今は聞きたくないな」
「レオ様の件です」
「ほら、やっぱり!」
レンが弾かれたように上半身を起こした。乱れた髪の間から、鋭い瞳が凛を射抜く。
「……レン様。レオ様は今、身体の曲がり角にいます。センターであるあなたなら、気づいているはずです。彼のステップが、一週間前よりコンマ数秒遅れていることに」
レンの表情が、一瞬で凍りついた。
嫉妬に狂っていた男の顔から、プロのアイドルの顔へと。彼はゆっくりと視線を落とし、唇を噛んだ。
「…………気づいてるよ。あいつ、最近ジャンプの高さが落ちてる。……でも、あいつは『大丈夫だ』って言い張るし、僕が指摘すると、ムキになって余計に練習しちゃうんだ」
「それは、あなたに追いつきたいからですよ。……レン様、レオ様にとって、あなたは絶対的な光です。だからこそ、彼は自分の『弱さ』をあなたに見せることができない。……彼が今、私に懐いているのは、恋慕ではなく……自分の限界を預けられる、唯一の『逃げ場』を求めているからなんです」
凛の声は、深夜の静寂に深く染み渡った。
三十五歳の女性として、そして彼らの身体のすべてを知るトレーナーとして。
レンはしばらく黙っていたが、やがて力なく肩を落とし、再びベッドへとうつ伏せになった。
「…………格好悪いな、僕。……弟分の悲鳴にも気づいてて、それを佐藤さんが癒やそうとしてることにまで嫉妬して。……最低だ」
「最低ではありません。……それだけ、私を信頼してくださっているということでしょう? ……ですから、レン様。……明日、私に一時間だけ時間をください。レン様の『専属』としての特権を、一度だけ、レオ様のために使う許可をいただきたいのです」
凛は、彼の首筋をそっと優しく撫でた。
レンはしばらくの間、自分の呼吸の音だけを響かせていたが、やがて消え入るような声で答えた。
「……分かったよ。……ただし。……レオを治した後は、僕のところに戻ってきてよね。……二倍、いや、十倍の時間をかけて、僕だけを甘やかしてくれないと、承知しないから」
「……ふふ。仰せのままに、わがままな王子様」
* * *
翌日。凛はレンから預かった「許可証(レンがレオに無理やり渡した、一時間の強制休憩命令)」を手に、レオを空き練習室へと呼び出した。
「……佐藤さん。……僕、本当に大丈夫だよ? レン君が怒ってるから、気を使ってくれてるんでしょ?」
レオは、不安そうな顔で凛を見つめる。
「レオ様。……靴下を脱いで、こちらへ。……私に、嘘は通用しませんよ」
凛は、有無を言わせぬ圧力でレオをベッドに座らせた。
彼の右足首を手に取った瞬間、凛の指先は、皮膚の下に潜む「熱」を捉えた。
――炎症。それも、かなり進行している。
「……っ、あ。……痛い、かも」
「『かも』ではありません。……レオ様。あなたは、このグループの未来です。……今ここで無理をして、一生踊れなくなるのと。……一週間、レン様にこっぴどく叱られながら休むのと。……どちらが、ファンを悲しませると思いますか?」
凛の厳しい、けれど潤んだ瞳を見て、レオはついに俯き、声を震わせた。
「……だ、だって……。僕が休んだら、レン君の負担が増えるし……。僕、まだレン君の隣に立つのに、必死なんだ……。怖いんだよ、置いていかれるのが……」
「……彼は、そんなにヤワな男ではありませんよ」
扉が開き、そこには腕を組んだレンが立っていた。
彼はレオの側に歩み寄ると、その短い髪を乱暴に、けれど愛情を込めてかき回した。
「レオ。……お前の代わりは、僕が全部引き受けてやる。……だから、今はお前の『神様』に、その足を預けろ。……これは、センター命令だ」
「……レン、君……」
「ただし、佐藤さんの指先を独占できるのは、今日の一時間だけだ。……明日からは、お前は氷嚢がお友達だからな。……いいな?」
レンはそう言って、凛に向かって少しだけ照れくさそうにウィンクをした。
凛は、その頼もしい推しの姿に、内面で盛大な拍手を送った。
嫉妬を乗り越え、リーダーシップを発揮するレンの姿は、どのライブのステージよりも眩しく、尊いものだった。
(……ああ。……やっぱり、この人のファンでいて良かった)
凛は、再びプロの顔になり、レオの足首に冷たいジェルを塗り広げた。
最年少の初恋騒動は、こうして「グループの絆」という形に着地した。
けれど。
施術を終えて楽屋を出ようとした凛の耳元で、レンが再び、逃げ場のない低い声で囁いた。
「……さて。……約束、覚えてるよね? ……今夜、僕の部屋。……覚悟しといてね、佐藤さん」
三十五歳、独身マッサージ師。
彼女の平穏な日常は、推しの「成長」と「重すぎる愛」によって、今日もまた、甘く激しくかき乱されていく。




