第16話:聖域の守護者と、解けない魔法
嵐が過ぎ去った後の事務所の廊下は、驚くほど静かだった。
佐藤凛は、手元に戻ってきたスマートフォンを、まるで壊れ物を扱うように両手で包み込んでいた。画面を点灯させれば、そこには依然として『レン君の鎖骨に住みたい凛』という、己の業を煮詰めたようなアカウントが生存している。
(……助かった。……いいえ、助けられてしまった。……それも、世界で一番知られてはいけない相手に)
凛は壁に背を預け、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。
コンプライアンス担当の東は、レンからどのような「脅し」あるいは「交渉」を受けたのか、それ以降、凛のデバイスに触れようとはしなかった。ただ、すれ違いざまに「……良いパトロンをお持ちですね、佐藤さん」と、皮肉とも諦めとも取れる言葉を投げかけてきただけだ。
パトロン。その言葉の響きに、凛の胸の奥がチリりと痛んだ。
自分は彼の健康を守るプロであるはずなのに、結果として、二十三歳の少年の「わがまま」という特権に守られてしまった。その事実が、三十五歳の矜持を少しずつ削り取っていく。
「……あ、いたいた。佐藤さん、そんなところで何してるの? 反省会?」
不意に、背後から明るい声がした。
振り返ると、そこにはレッスンを終えたばかりのレンが立っていた。タオルで首元の汗を拭いながら、彼はいつもの、陽気で少しだけ距離感の狂った笑顔を浮かべている。
「……レン様。……先ほどは、ありがとうございました。……東さんの件、あなたが手を貸してくださったと聞きました」
「いいよ、あんなの。東さん、真面目すぎるんだよね。佐藤さんのスマホの中に何が入っていようが、僕が佐藤さんを必要としてる事実に変わりはないんだから」
レンはそう言うと、凛の隣に並んで壁に寄りかかった。
高い天井を見上げながら、彼はふっと、少しだけ真面目なトーンで言葉を続けた。
「……でもさ、佐藤さん。僕、意地悪で『見せて』って言ったんじゃないんだよ」
凛の心臓が、跳ねる。
「……佐藤さんが、僕に内緒で僕のことを応援してくれてること。……僕、本当は、最初からなんとなく気づいてたんだ。……だって、僕の体のどこが凝ってて、どこが限界かなんて、僕の配信を隅々までチェックしてなきゃ分からないでしょ?」
「それは……その、プロとしての観察力が……」
「あはは、まだ言う? ……いいよ。佐藤さんが『プロだから』って言い張るなら、僕はそれを信じる。……でもね、佐藤さん。僕は、ファンに崇められることには慣れてるけど、一人の『佐藤凛』っていう女性に、あんなに必死に守ろうとされることには、慣れてないんだ」
レンが、凛の方を向いた。
その瞳は、ステージで見せる「王子様」の完璧な仮面ではなく、等身大の、一人の孤独な青年の熱を帯びていた。
「……だからさ。アカウントを見せるのは、もっと先でいい。……その代わり、これからも僕の傍にいて。……僕が自分を見失いそうになった時、その指先で『あなたはここにいるよ』って、教えてほしいんだ」
(……ズルい。……本当に、この子はズルすぎるわ)
凛の目尻が、じわりと熱くなった。
自分が隠し続けてきた汚い執着や、滑稽なファン心。それらを彼は「自分を守ろうとしてくれる優しさ」として受け取ってくれたのだ。三十五年間生きてきて、これほどまでに全肯定されたことがあっただろうか。
凛は、溢れそうになる感情を飲み込み、再びプロの仮面を被り直した。
ただし、今度は少しだけ、本物の温もりが混じった表情で。
「……承知いたしました、レン様。……あなたの筋肉が私を必要とする限り。……そして、あなたがその『輝き』を失わない限り。……私は、あなたの専属として、ここを動きません」
「……うん。約束だよ。……あ、でも! 他のメンバーの筋肉を触る時は、一割くらい手を抜いてもいいからね!」
「……それはプロとして承服しかねます。全員、等しく『根こそぎ』解させていただきます」
「あはは! やっぱり佐藤さんは、そうじゃなきゃ!」
レンは満足そうに笑うと、練習室に戻るべく背を向けた。
その背中は、以前よりも少しだけ、軽やかに見えた。
* * *
その夜。
凛は自宅のアパートで、再びスマートフォンを開いた。
いつもなら、レンの配信に「鎖骨が最高!」と怪文書のようなコメントを打ち込むところだが、今日の彼女は違った。
彼女は、鍵をかけたままの裏アカウントに、一言だけ投稿した。
『今日の推しは、世界で一番かっこよくて、世界で一番優しかった。……明日も、彼の肩甲骨が、自由に羽ばたけますように』
それは、誰にも見られないはずの、けれど世界で一番誠実な「祈り」だった。
すると、数分後。
通知音が鳴った。
『あなたの投稿に、新しい「いいね」が届きました』
凛は、凍りついた。
このアカウントは鍵付きで、フォロワーは一人もいないはずだ。
震える指で通知を確認する。
そこには、一つだけ、見慣れないアイコンの「いいね」が刻まれていた。
アイコンは、オレンジ色の太陽。
ユーザー名は――『R』。
「…………嘘でしょ」
凛は、そのままベッドに崩れ落ちた。
彼がいつ、どうやってこのアカウントを特定したのか。あるいは、最初から知っていたのか。
三十五歳、独身マッサージ師。
彼女の「パンドラの箱」は、封印されたのではなく、推しと共有する「秘密の交換日記」へと変貌してしまったらしい。
窓の外、夜空に浮かぶ月は、どこか悪戯っぽく笑っているように見えた。
二人の秘密は、デジタルと現実の境界を越えて、さらなる深みへと溶け出していく。




