第15話:デジタル・デッドライン、乙女の指先は震えて
この世には、決して暴かれてはならない「パンドラの箱」がある。
三十五歳の独身女性にとって、それは長年使い古されたスマートフォンの、特定のSNSアプリの奥深くに隠された「裏アカウント」に他ならない。
(……絶体絶命。まさにチェックメイトだわ)
佐藤凛は、事務所の休憩室で、冷え切った缶コーヒーを握りしめながら戦慄していた。
目の前のテーブルには、事務所の法務コンプライアンス担当――通称『デジタル・クリーナー』の東が座っている。彼は無表情にタブレットを操作しながら、凛に向かって事務的な、しかし断固としたトーンで告げた。
「佐藤さん。専属契約に伴う最終身辺調査の一環として、デバイスの『清浄性確認』を行います。……今の時代、過去の不用意な投稿一つが、レン様という巨大な資産の価値を損なうリスクになりますからね」
「清浄性……確認、ですか?」
「ええ。あなたが使用している全てのSNSアカウント、および過去のログについて、我々の専門チームが解析します。……もちろん、レン様に対する『不適切な執着』や『ファンとしての過剰な反応』がないかも含めてです。……何か、不都合はありますか?」
東の眼鏡の奥の瞳が、鋭く光った。
凛の背中に、滝のような冷や汗が流れる。
不都合。不都合しかない。
彼女のアカウント『レン君の鎖骨に住みたい凛』には、彼がデビューした瞬間の初々しい画像から、昨夜の生配信で彼がうっかり首筋を晒した際の「悶絶スクショ」まで、網膜に焼き付けたい思い出の全てが、業の深いコメントと共に詰め込まれている。
もしこれが解析されれば、凛は「不適切な感情」の塊として、即座にこの聖域(事務所)から追放されるだろう。それどころか、レン本人に「自分の鎖骨に住みたがっている中年女性」としての正体がバレるという、社会的・精神的死が待っている。
(どうにかして、今、この場で、あの垢を消去しなきゃ……!)
「……あの、東さん。プライバシーの観点から、少しお手洗いに……」
「いいえ。デバイスは今この瞬間から、解析が終わるまで私の管理下に置いていただきます。……不自然な操作は、隠蔽とみなされますよ」
東の手が、凛のスマホへ伸びる。
その時だった。
「あーっ! 佐藤さん見つけた! ちょっと、肩がもう限界なんだけど!」
救世主――あるいは更なる混沌を連れて、レンが勢いよく休憩室に飛び込んできた。
彼は東の存在を無視し、凛の腕を掴むと、そのまま彼女を椅子から引き立たせた。
「レン様! 今は調査の途中で……」
「そんなの後にしてよ! 次の撮影まであと十五分しかないんだ。佐藤さんが僕をメンテナンスしてくれないと、僕、カメラの前で固まっちゃうよ。……いいでしょ、東さん?」
レンが、持ち前の「わがまま王子」のオーラを全開にして東を威圧する。
東は苦い顔をしたが、トップアイドルのコンディションを優先しないわけにはいかない。
「……分かりました。十五分だけです。……佐藤さん、スマホはここに置いていってください」
「――っ、それは……!」
「いいじゃん、スマホなんて。僕の筋肉の方が大事でしょ?」
レンがニヤリと笑い、強引に凛を連れ出した。
連れ込まれたのは、いつものトレーニングルームの隅。
凛の脳内は、スマホに残された「鎖骨垢」のことでパニック状態だった。十五分後には解析チームが動き出す。今、何とかして遠隔操作で消すか、あるいは東の目を盗んで操作するしかない。
「……佐藤さん、顔色が悪いよ? ……僕の背中、そんなに酷い?」
「い、いいえ! 問題ありません。……レン様、少し失礼します!」
凛は、必死に頭を回転させた。
自分のスマホは東の手元にある。だが、幸いなことに、レンはいつも自分のタブレットを側に置いている。
(レンくんのタブレットから、私の垢にログインして……設定画面から退会処理を……! でも、IDとパスワードを打ち込むのを彼に見られたら終わり……!)
「……レン様。……少し、実験的な手技を試してもよろしいでしょうか」
「実験? 佐藤さんのなら、何でもいいよ」
「では……視界を遮断して、感覚を研ぎ澄ませてください。……タオルを顔にかけますね」
凛は、レンの顔をタオルで覆い、彼が何も見えない状態にした。
それから、素早く片手で彼の背中の脊柱起立筋を力強く揉みほぐしながら、もう片方の手で、テーブルの上にあるレンのタブレットを密かに引き寄せた。
(いける……! ブラウザを立ち上げて……Xにアクセス……!)
左手はプロの技術でレンを昇天させ、右手は時速数百キロのフリック入力で自分の黒歴史を抹消する。
まさに、人生を賭けた「二刀流」の死闘。
「……あ、あぁ……っ。……佐藤さん、今日の指、なんかいつもより激しいね。……奥まで、グイグイくる……」
「……集中してください、レン様! 今、あなたの体の『毒素』を出しているところですから!」
(毒素は私のアカウントよ!! 早く、早くログインして……!)
ログイン画面。パスワードを打ち込む。
だが、ここで最大の難関が訪れた。
『二要素認証:登録済みの電話番号に送信されたコードを入力してください』
(スマホ……! 私のスマホは、東さんの目の前にある……!!)
凛は絶望した。
解析が始まれば、通知センターに「認証コード」が表示される。それを見た東が「おや、これは何のアカウントですか?」と首を傾げる光景が目に浮かぶ。
その時。レンが、タオルに覆われたまま、ふふっと笑った。
「……佐藤さん。……僕ね、佐藤さんのこと、ずっと見てるから分かるんだよ」
凛の手が止まる。
「……佐藤さん、たまに僕の配信を見ながら、すっごい速さでスマホ打ってるでしょ。……あの時の指の動き、今の左手の動きと同じだ。……ねえ、何のアカウントを守ろうとしてるの?」
凛の心臓が、一瞬停止した。
バレていた。
彼が、自分をただの「マッサージ師」としてではなく、一人の「人間」として、その些細な癖までも観察していたという事実に。
「……レン、様……」
「……東さんには、僕から言っておくよ。『彼女のプライバシーに踏み込みすぎるなら、僕はもう踊らない』って。……だから、安心して。……その代わり」
レンが、自らタオルを取り、凛の手を握った。
その瞳は、すべてを見透かしているようでいて、けれど深い慈愛に満ちていた。
「……いつか、そのアカウント、僕に見せてね。……佐藤さんが、僕をどんな風に愛してくれてるのか、ちゃんと知りたいから」
凛は、言葉を失った。
三十五歳、独身マッサージ師。
彼女の「パンドラの箱」は、推し本人の手によって、最も優しく、最も残酷な形で封印された。
東の元へ戻ったレンが何を言ったのか、凛は知らない。
ただ、戻ってきたスマホには「解析中止」のメモが添えられていた。
凛は、震える手で『レン君の鎖骨に住みたい凛』のアカウントを開いた。
そこには、最新の投稿として、彼がステージで輝く後ろ姿の写真が添えられていた。
(……一生、消せないじゃない。……こんなことされたら)
デジタルな危機は去った。だが、凛の心の中にある「推しへの重力」は、もはや銀河系を飲み込むほどの質量を持って、彼女をレンの元へと引き寄せていた。




