第14話:鏡の中の偽物と、本物の熱量
アイドルの世界は、煌びやかな光に満ちている。だが、その光が強ければ強いほど、足元に落ちる影は深く、鋭い。
佐藤凛は、事務所の廊下を歩きながら、手元のタブレットでメンバー五人の最新のバイタルデータをチェックしていた。専属トレーナーとして正式に雇用されてから一週間。彼女の生活は、推しを追いかける「オタ活」から、推しを物理的に組み上げる「製造工程」のような多忙を極めていた。
「……トウマ様の右膝、炎症反応は治まったけれど、まだ大腿四頭筋の緊張が取れきっていないわね。レオ様は……相変わらずジャンプが高すぎる。着地衝撃を分散させるためのインソールを特注しないと」
独り言の内容は、もはや恋する乙女のそれではない。完全に、アスリートを管理する軍医のトーンだ。
だが、そんな凛の前に、一人の男が立ち塞がった。
ルミナス・レイのメンバーではない。派手な銀髪に、攻撃的なピアス。最近飛ぶ鳥を落とす勢いでチャートを駆け上がっているライバルグループ『ジェネシス』のエース、ジンだった。
「へぇ……君が噂の『神の手』? 思ったより地味なお姉さんだね」
ジンは、壁に背を預け、品定めするように凛を上から下まで眺めた。その瞳には、純粋な興味よりも、他者の「宝物」を奪い取ろうとするような傲慢な色が混ざっている。
「失礼ですが、どちら様でしょうか。私は今、次の施術の準備で急いでおります」
「冷たいね。ジェネシスのジンだよ。……ねえ、ルミナス・レイなんて、もう賞味期限切れだろ? センターのレンだって、最近はマッサージに頼らなきゃ踊れないほどボロボロだって聞いたぜ。……どうかな、俺たちの専属にならない? 報酬なら、今の三倍出すよ」
凛の足が止まった。
三倍。その言葉に、一瞬だけ揺らいだのは、給与口座の残高ではない。
「レンはボロボロだ」という、外部からの容赦ない評価に対する激しい憤りだった。
(……賞味期限切れ? 誰が。どの口が言ってるの?)
凛の心の中で、理性の壁がガラガラと音を立てて崩れ、代わりに「古参ガチ恋勢」としての猛毒が鎌首をもたげた。
彼女は、ゆっくりとジンの正面に立った。そして、いつもの営業スマイルよりも数段冷たい、極北の微笑みを浮かべた。
「ジン様。……ご提案は光栄ですが、お断りいたします。私は、泥舟に乗る趣味はございませんので」
「……あ? 泥舟って、俺たちのことかよ」
「いいえ。……ご自分の身体の声も聞こえないような、未熟な『自称エース』のことです。……失礼ながら、ジン様。あなたの左肩、三角筋の後部が不自然に盛り上がっていますね。……無理な筋トレでビジュアルだけを整えた結果、インナーマッスルが悲鳴を上げています。今のままでは、三ヶ月以内に腕が上がらなくなりますよ。……そんな脆い身体の方に、私の技術を割く余裕はございません」
「なっ……! てめぇ、何を知った風なことを……!」
ジンが激昂し、凛の肩を掴もうと手を伸ばした。
だが、その手が彼女に届く前に、横から伸びてきた力強い腕がジンの手首を掴んだ。
「……僕の佐藤さんに、気安く触らないでくれるかな。ジン」
冷ややかな、けれど底知れない怒りを含んだ声。
そこには、いつもの陽気なレンはいなかった。汗を拭うタオルを首にかけ、稽古着姿のまま現れたレンは、ジンの手を無造作に振り払うと、凛を守るように背後に隠した。
「レン……! 練習中じゃなかったのかよ」
「佐藤さんの気配がしたからさ。……ジン、君たちがどれだけ勢いがあっても構わないけど、うちのスタッフを引き抜こうとするのはマナー違反だよ。……特に彼女は、僕がいないとダメなんだ。……ね? 佐藤さん」
レンが振り返り、凛に向かって、ふっと柔らかく笑った。
その笑顔の裏側に、ジンに対する明確な「勝利宣言」と、凛に対する「甘い独占欲」が混ざり合っているのを、彼女は見逃さなかった。
ジンは忌々しげに舌打ちをすると、「……せいぜい、そのマッサージ師に介護されながら沈んでいけよ」と捨て台詞を吐いて去っていった。
静かになった廊下。
凛は、ようやく肺から熱い空気を吐き出した。
「……レン様。助かりました。……ですが、あのような挑発に乗る必要はありません。あなたの価値は、あのような言葉で揺らぐものではありませんから」
「……分かってる。でも、我慢できなかったんだ。……佐藤さんが、あんな奴に馬鹿にされるのも、触られそうになるのも。……僕、本当に、佐藤さんのことになると余裕がなくなっちゃうみたい」
レンはそう言うと、周囲に誰もいないことを確認してから、凛のジャージの裾をぎゅっと握った。
「……ねえ、佐藤さん。……さっきの、かっこよかったよ。『泥舟』なんて、あんなにハッキリ言うなんて。……僕、また惚れ直しちゃった」
(惚れ直した!? 待って、その日本語の使い方、合ってる!? 私はただのスタッフよ、レンくん!)
凛の脳内は、再びパニックに陥った。
レンは、凛を近くの空き部屋――機材置き場のような場所へと誘い込んだ。扉を閉めると、そこはステージの喧騒とは無縁の、二人だけの狭い空間になった。
「……レン様? 次のレッスンまで時間がありませんよ」
「……一分だけ。……補給させて。……ジンに言われたこと、実は、ちょっとだけ効いてるんだ。……僕、本当に、いつまでこうして踊っていられるのかなって」
レンが、凛の肩に額を預けた。
彼の身体からは、激しい練習の後の熱気と、彼特有のシトラスの香りが立ち上っている。
凛は、その震える肩を見て、もう何も言えなくなった。
ライバルの台頭、世代交代の足音。二十三歳の若きエースが、その輝きの裏側でどれほどの恐怖と戦っているのか。
凛は、そっと手を伸ばし、彼の背中を優しく叩いた。
「……大丈夫ですよ。……あなたの筋肉は、私が責任を持って管理します。……錆びさせないし、折らせもしない。……あなたが、もう十分だと思ってステージを降りるその日まで、私が、あなたを世界一のアイドルに仕立て上げ続けますから」
「…………佐藤さん」
レンが、顔を上げた。
その瞳には、先ほどの不安は消え、代わりに凛に対する、深く、重く、逃げ場のない愛着が宿っていた。
彼は、凛の頬にそっと手を触れた。オイルで少し荒れた、プロの女性の指。その手のひらを、彼は愛おしそうに自分の頬に擦り寄せた。
「……約束だよ。……僕の専属。……僕だけの、神様」
その瞬間、扉の外でスタッフの呼ぶ声がした。
二人は弾けるように距離を取った。
「……い、いけません、レン様! 早く戻ってください!」
「あはは、分かってるって。……じゃあ、また夜にね。……佐藤さんのおかげで、今日は最高のパフォーマンスができそうだよ」
レンは、太陽のような笑顔を振りまきながら、廊下へと走り去っていった。
一人残された凛は、壁に寄りかかってずるずると座り込んだ。
心臓が、耳のすぐそばで鳴っている。
(……三十五歳。……心臓のスペア、あと何個あっても足りないわ。……でも、あんな顔されたら……守るしかないじゃない)
凛は、自分の手のひらを見つめた。
ライバルを撥ね退け、推しを守り、その心までをも解きほぐす。
彼女の指先は、もはや単なる「癒やし」を超え、一人のアイドルの運命を形作る、唯一無二の武器となっていた。
廊下の窓から見える空は、レンの瞳のように澄み渡っていた。
戦いは、まだ始まったばかりだ。




