知恵ある竜
『竜の谷』においても最も重要なことはまず魔物に出くわさないことだ。
これは椛の推測ではあるが、一体の魔物に見つかった場合、まず威嚇の咆哮を上げるだろう。その時点で、他の魔物たちも獲物がやってきたということが知れ渡る。その後は常に追われる立場だ。最初の魔物を退けようと殺そうと、弱った勝者を喰らいに他の魔物が現れる。最悪の連鎖を起こさないためである。
野営地にほとんどのかさ張る荷物を置いていき、必要とされるものだけを悼也の影の中に入れた。この影に入っていた荷物は最初の時よりも減ったおかげで、悼也自身が使用できる影にも余裕が生まれる。次に、椛は風を操り薄い膜を張った。これは椛たちの匂いを極力、表に出さないためだ。鼻の利く魔物であれば僅かな残り香で後をつけてくる可能性はある。他にも食事の際に発生する保存食独特の匂いも同様だ。
あまりに慎重すぎる行軍ではあったが、それでも魔物に一度も会わなかったという成果は大きかった。おかげでお昼ごろには七合目あたりに辿り着き、日が暮れる前には山頂も目と鼻の先となっていた。
「あそこに竜王が……」
日が暮れてから山頂に臨むのは危険だと判断し、本日はここで寝ることとなった。
椛たちが野宿を行う場所に指定したのは山頂前の狭い空間。大型の魔物が見つけにくく、襲いにくい場所として適していた。
そしてその隙間からでも確認できるほどに、山頂には大きな洞穴がった。あわやそこに竜が住んでいると云われて納得できるほどに大きい。
今までなかった現実感が、一気に椛の中にこみ上げてくる。
『知恵ある竜』。
そうは教えられても、竜である。少しでも気分を害してこちらに危害を加えてくれば、呆気ないほどに椛も椋も悼也も死ぬであろう。幾つもの死線を潜り抜けたとはいえ、本当に死に瀕したといって覚えがあるのは『飛竜』である『クリムゾンドラゴン』の時だけだ。なぜだか椛はその時のことを思い出そうとすると靄がかかってしまうのだが、恐怖に関していえばこの竜を比較してしまえば全てが劣る。それほどに、竜は恐ろしいのだと椛の中には確かな気持ちがあった。
『どうしたのじゃ、モミジ。暗い顔をしておるぞ』
その時、椛の傍らにいた風精霊が彼女の顔の前に来て言った。
椛も風莉がいることを忘れてたわけではないので、驚きは薄い。
それでも、この精霊にそのことを言われたとき椛は無意識的にだが右の頬に触れていた。
「風莉……。私そんなふうに見える?」
『うむ。……怖いか?』
風莉は明言こそしなかったが、意味が分からないわけではない。
だから、椛は考える仕草を入れて答えた。
「……なに言ってのよ、今まで上手く行ったんだから、ここでも上手くいくわよ」
『そうか』
虚言だ。
風莉もそのことには気づいている。だが、指摘はしない。
椛は戦闘でこそ椋にも悼也にも大きく劣っている。『もし』一人でこの世界に放り出されていれば二日と保たずとして死んでいたことが確信できる。しかし今ここに『もし』は無い。
あるのは『現在』という現実が存在し、次には『未来』という希望がある。
『過去』をないがしろにしろとは言わない。なぜなら『過去』は、『現在』の糧となるからだ。『過去』なくして『現在』は成り立たず、『現在』なくして『未来』は生まれない。
だから、椛は『過去』を信じている。知識を、経験を、己を構成してきた全てを。
椛は一人でここまで来たわけではない。椋が、悼也がいる。そして椛は二人が出来ないことをすることが出来る。椛が二人を信じているように、二人が椛を信じてくれているのだ、弱音など吐いていられない。自分の言動が、親友を殺すことになるかもしれないのだ。それだけの責任を、椛は背負っている。だが、『それだけ』の責任しか背負う必要は無いのだ。椛は背負えない責任を、椋と悼也が背負ってくれているのだから。
「さ、明日も早いのよ。さっさと食べて、さっさと寝ることにしましょう」
そんな辛気臭いことを考えていて、椛は馬鹿らしくなった。
ぐだぐだ考えるというのは嫌いなのだ。明確に的確に、物事を判断して事を進める。異例なことが起きても補うだけの『仲間』がいる。
そう、恐れる必要などどこにもないのだ。
『そうじゃな。……といっても、わしは寝る必要はないがの』
「ずるいわねぇ。だったら風莉だけで見張りをやって貰おうかしら?」
『それは無理じゃな。なんせわしはモミジが寝ている間しか完全な顕現が出来ぬからな。役に立つのはモミジが起きているときだけよ』
「ぐぬ」
椛には恐怖も迷いもなく、寝れないかと思っていた夜は、嘘のように意識を沈みこませたことで明けていた。
「さぁ、今日中に竜王に会うわよ」
「お~!」
「………………」
絶好調である。
寝れたことが良かったのだろう。
意識ははっきりとしている。体調に不調は感じない。昨日までの恐怖も去っている。
思考は順調に働いていた。絶好調であるがゆえに調子にのることも危険だということは理解している。
だから、いつも通りに動くのだ。
椋を先頭に、椛、悼也。隊列を崩すことはなく、今も今までもこうしてきた。
そうして一時間の時間を掛けて、遂に山頂へとたどり着いたのだった。
「よく来たな」
「っ!?」
「下がって!」
「下がっていろ!」
たった一言だ。
辿り着いた頂上にしては空間のある広場。その先に、奥も視えないほどの洞穴の中。いるであろう、『ソレ』の一言で、椋と悼也は最優先で椛の前にでることを反応してではなく反射して行った。
後ろを気を付けている余裕などない。椋と悼也の二人で相対したとしても勝ち目がないことは明白にするだけの存在感が、三人の背筋を冷やし、二人の警戒心を最大に上げ、一人を気圧すのには十分過ぎた。
光は奥にまで届いてはいないはずなのに、洞穴の奥からは二つの紅い光がこちらを見ていた。
「くっくっく、そう警戒するな。吾に襲うつもりはない」
三人の反応を見て、『紅の瞳』は言った。試すつもりでやっていたというように、そこに押しかかっていた圧力は霧散していた。
そのおかげで、幾ばくかの安堵を覚える三人。それでも、完全に気を抜くというわけにもいかないが。
だからといって黙っているわけにも、動かないでいるわけにもいかない。
椛は、踏み出した。
「初めまして。私は黒椿椛……椛と云います。
あなたが、『知恵ある竜』であり、『竜王』という者ですか?」
「『知恵ある竜』か。久方ぶりに聞いたな。五百年前か。それは三代前のエルフの女王が称した名であろう?」
「代まではわかりませんが、エルフの方から聞いたのは確かです」
「そうかそうか。だったら、吾も名乗ろう。『知恵ある竜』と呼ばれてはいるが、吾は『竜王』。竜を統べるものよ」
竜王は楽しげであった。
人間が来たことに対してなのか、エルフという名を聞いたからなのか、それは椛にはわからなかった。
「おっと、すまなかったな。吾は『竜王』ではあるが、まだお互いの姿さえも晒していなかった」
そして竜王は、重い音を立てながら進んでいた。
洞穴の近くに来たことで、明るくなってきた光がその身を照らす。
竜王は、『黒鱗紅眼』であった。




