次の壁
第48話 次の壁
王都の西門を出てから、すでに3時間が経っていた。
「……暑い」
エリシアが額の汗を拭った。
街道の両側には背の低い草が広がり、遠くには緩やかな丘陵が見えている。朝方は涼しかったものの、太陽が高くなるにつれて気温が上がり、鎧の下には汗が滲んでいた。
「まだ昼前よ」
先頭を歩くミアが振り返った。
「帰りも同じ道を歩くんだから、今からへばらないでよね」
「分かってるけどさあ」
「水を飲んでおけ」
ダグラスが水筒を差し出した。
「喉が渇いてからでは遅いぞ」
「ありがとう!」
エリシアは水を飲み、ようやく息をついた。
今回の依頼は、王都西方にある放牧地の警備だった。
最近、丘陵地帯に魔物が出没するようになり、家畜が襲われる被害が続いているという。
依頼内容は魔物の追跡と討伐。
確認されているのは《牙猪》と呼ばれる魔物だった。
通常の猪よりも大きく、鋭い牙と頑丈な皮膚を持つ。突進力が高く、正面から受け止めようとすれば、盾ごと吹き飛ばされる危険がある。
依頼の等級はEランク。
ただし、備考欄には注意書きが添えられていた。
『複数個体の存在が疑われる。大型個体を発見した場合は無理に交戦せず、ギルドへ報告すること』
5人はその条件を確認した上で、依頼を受けていた。
「牙猪か……」
エリシアが剣の柄に触れた。
「今の私たちなら、普通の個体は倒せると思う?」
「倒せるだろうな」
ダグラスが答えた。
「だが、突進をまともに受けるのは避けたい。俺の盾でも、相手の勢いによっては防ぎきれん」
「だったら、最初から横に避ければいいんじゃない?」
「避けた先に仲間がいたらどうする?」
「……あ」
「だから位置取りが大事なんだ」
ダグラスは穏やかに言った。
レオンも頷いた。
「僕の《水弾》なら、突進の軌道をずらせるかもしれない。ただ、詠唱が必要だから、近づかれてからでは間に合わないね」
「つまり、先に見つけるのが私の仕事ってわけね」
ミアが耳を動かした。
「任せて。こういう場所なら、遠くからでも足音を拾えるわ」
ジョシュアは周囲を見渡した。
風に揺れる草。
遠くで鳴く鳥。
丘の斜面に続く獣道。
特に変わったものは見当たらない。
だが、胸の奥に妙な引っかかりがあった。
何かを見落としているような感覚。
「ジョシュア?」
レオンが声をかけた。
「何か気になることでも?」
「いえ……」
ジョシュアは少し考えた。
「この辺り、家畜が襲われているんですよね」
「そうだね」
「それなのに、放牧地の近くには足跡が少ない気がします」
ミアが立ち止まった。
「……確かに」
彼女は地面にしゃがみ込んだ。
乾いた土の表面を指でなぞる。
「ここ、何かが通った跡はある。でも、かなり古いわ」
「魔物が移動したということかな」
レオンが尋ねた。
「可能性はあるわね」
ミアは立ち上がった。
「とりあえず、牧場の人に話を聞きましょう」
◇
放牧地の管理人は、日に焼けた顔の中年男性だった。
5人が冒険者証を見せると、男はほっとした様子で門を開けた。
「助かったよ。昨日も羊が1頭やられたんだ」
「昨日ですか?」
ミアが尋ねた。
「ああ。夕方になっても戻ってこなくてな。探しに行ったら、柵の向こうで死んでいた」
「魔物を見た人はいますか?」
「俺は見てない。ただ、息子が大きな猪みたいな影を見たって言ってる」
「大きさは?」
ダグラスが尋ねる。
「普通の猪の2倍くらい、だそうだ」
5人の表情が引き締まった。
通常の牙猪でも危険な相手だ。
それより大型の個体となれば、警戒する必要がある。
「その影を見た場所を教えてください」
レオンが言った。
管理人は牧場の奥を指差した。
「あの丘の向こうだ。羊を襲ったのも、あっちの柵の近くだった」
「分かりました」
ダグラスが頷いた。
「まずは周辺を調べます。危険なので、しばらく家畜を外へ出さないでください」
「頼むよ」
管理人は深く頭を下げた。
5人は牧場の柵に沿って歩き始めた。
しばらくすると、ミアが足を止めた。
「……あった」
柵の外側に、深い足跡が残っていた。
大きな蹄の跡。
その周囲には土が掘り返されたような痕跡がある。
「かなり大きいわね」
ミアが呟いた。
ダグラスもしゃがみ込んだ。
「重い個体だな。地面がここまで沈んでいる」
「でも、柵は壊れてないね」
エリシアが言った。
「中には入ってこなかったのかな?」
ジョシュアは足跡の向きを確かめた。
「……この足跡、柵から離れる方向へ続いています」
「本当だ」
レオンが頷く。
「なら、追ってみよう」
5人は慎重に丘を登った。
◇
最初に異変に気づいたのはミアだった。
「止まって」
小さな声だった。
全員が足を止める。
ミアは片手を上げ、耳を澄ませた。
「……いる」
「どこ?」
エリシアが囁く。
「丘の向こう。少なくとも2体」
ダグラスが盾を構えた。
「回り込むか?」
「待って」
ミアは目を細めた。
「もう1体……いや、違う」
草の向こうから、低い唸り声が聞こえた。
続いて、何かが地面を掘る音。
レオンが杖を握り直す。
「近いね」
5人は丘の斜面に身を伏せ、ゆっくりと向こう側を覗き込んだ。
そこには、3体の牙猪がいた。
2体は通常の個体。
しかし、中央にいる1体は明らかに大きかった。
肩の高さだけでも成人男性の胸ほどあり、頭部から突き出た牙は太く湾曲している。
背中には古い傷跡が走り、首の周囲には硬い皮膚が盛り上がっていた。
「……大きい」
エリシアが息を呑んだ。
「備考にあった大型個体だね」
レオンが囁く。
「ここは報告を優先した方がいい」
ダグラスが頷いた。
「そうだな。あれを相手にする必要はない」
5人は静かに後退しようとした。
その時だった。
丘の下から、甲高い鳴き声が響いた。
「メェェッ!」
羊だった。
牧場の柵から抜け出したのか、1頭の羊が草むらを走っている。
牙猪たちが顔を上げた。
「まずい!」
ミアが叫んだ。
通常個体の1体が羊へ向かって走り出す。
エリシアが剣を抜いた。
「助けなきゃ!」
「待て、エリシア!」
ダグラスが制止する。
しかし、すでに彼女は丘を駆け下りていた。
「こっちだ!」
エリシアは叫びながら、牙猪の進路へ飛び込んだ。
牙猪が急停止する。
そして、標的をエリシアへ変えた。
「エリシア、横へ!」
ジョシュアが叫ぶ。
エリシアは即座に地面を蹴った。
牙猪が彼女のすぐ横を通り過ぎる。
その勢いのまま、丘の斜面へ突っ込んだ。
「危なかった……!」
エリシアは息を吐いた。
だが、安心する暇はなかった。
もう1体が動き出していた。
「エリシア、戻れ!」
ダグラスが駆け下りる。
盾を構え、彼女と牙猪の間へ入った。
衝突。
鈍い音が響いた。
「ぐっ……!」
ダグラスの足が地面を滑る。
盾の表面を牙が擦り、金属音が鳴った。
「重い……!」
彼は歯を食いしばった。
しかし、踏みとどまることには成功した。
「レオン!」
「分かってる!」
レオンは杖を掲げた。
「水よ、我が呼び声に応え、流れとなって敵を打て――《水弾》!」
水の塊が牙猪の側面へ命中した。
巨体が傾く。
ダグラスはその隙に盾を押し出した。
「今だ!」
エリシアが踏み込む。
「《強撃》!」
剣が牙猪の首元へ叩き込まれた。
牙猪が倒れる。
「1体!」
エリシアが叫んだ。
しかし、その声はすぐに途切れた。
地面が震えた。
大型個体が動き出していた。
低い唸り声を上げながら、丘の斜面を駆け下りてくる。
その速度は、見た目から想像できないほど速かった。
「全員、離れろ!」
ダグラスが叫んだ。
5人は散開した。
大型の牙猪が、先ほどまでダグラスの立っていた場所を突き抜ける。
地面が抉れ、土が飛び散った。
「……あれは無理だ」
ダグラスが呟いた。
「盾で受けたら、腕ごと持っていかれる」
ミアが周囲を見回した。
「逃げ道は?」
「北側の斜面なら登れる!」
ジョシュアが答えた。
「でも、羊がまだ下にいます!」
羊は恐怖で動けなくなっていた。
大型個体はすでに方向を変え、再び突進の構えを取っている。
エリシアが唇を噛んだ。
「置いていけない……!」
ダグラスは一瞬だけ考えた。
「レオン、足を止められるか?」
「少しなら!」
「ミア、羊を頼む。エリシアは俺と一緒に注意を引け!」
「了解!」
ミアが走り出した。
レオンは杖を構える。
大型個体が地面を蹴った。
「水よ、我が呼び声に応え、流れとなって敵を打て――《水弾》!」
水弾が地面へ命中した。
土と水が跳ね上がり、牙猪の前足が滑る。
突進の軌道がわずかに変わった。
「エリシア!」
「うん!」
エリシアは大型個体の側面へ回り込んだ。
しかし、剣を振り下ろす直前、ジョシュアの声が飛んだ。
「攻撃しないでください!」
「えっ!?」
「今は離れて!」
エリシアは反射的に後退した。
次の瞬間、大型個体が首を振った。
太い牙が、彼女のいた場所を薙ぎ払う。
もし攻撃していたら、避けきれなかっただろう。
「……っ!」
エリシアは顔を青くした。
ジョシュア自身も驚いていた。
なぜ分かったのか。
大型個体の首が動く前から、攻撃が来ると確信していた。
しかし、考えている暇はない。
「ミアさん!」
「もう少し!」
ミアは羊を抱え、丘の斜面を駆け上がっていた。
ダグラスが大型個体の注意を引きつける。
「こっちだ!」
盾を叩いて音を立てる。
牙猪が顔を向けた。
その瞬間、レオンが再び詠唱を始めた。
「風よ、我が呼び声に応え、刃となって敵を裂け――《風刃》!」
風の刃が大型個体の肩へ命中する。
しかし、硬い皮膚に浅い傷を残しただけだった。
「……硬い!」
レオンが息を呑んだ。
大型個体は唸り声を上げ、レオンへ向きを変えた。
「まずい!」
ダグラスが走る。
だが、間に合わない。
ジョシュアは咄嗟に声を張り上げた。
「レオンさん、左へ!」
レオンは考えるより先に身体を投げ出した。
牙猪がすぐ横を通り過ぎる。
風圧で髪が乱れ、地面に転がったレオンの頬を土が擦った。
「……助かった!」
大型個体はそのまま斜面を駆け上がり、丘の向こうへ消えていった。
残った通常個体も、その後を追って逃げ出す。
5人はしばらく動けなかった。
荒い息だけが響く。
「……終わった?」
エリシアが呟いた。
「今はな」
ダグラスが盾を下ろした。
表面には深い傷が残っていた。
「追うのはやめよう。あれは俺たちの手に余る」
誰も反対しなかった。
◇
王都へ戻った頃には、空が赤く染まり始めていた。
5人はそのままギルドへ向かい、依頼の報告を行った。
「大型個体を確認したんですね」
受付嬢は記録を取りながら表情を引き締めた。
「はい。通常個体よりかなり大きく、皮膚も硬かったです」
レオンが答える。
「《風刃》を当てましたが、ほとんど傷を負わせられませんでした」
「なるほど……」
受付嬢は頷いた。
「報告内容から判断すると、通常の牙猪とは異なる上位個体の可能性があります」
「依頼は失敗ですか?」
エリシアが尋ねた。
「いいえ。大型個体を発見した場合は報告するよう、依頼条件に記載されています。通常個体の討伐も確認できていますので、依頼は達成扱いです」
「よかった……」
エリシアは胸を撫で下ろした。
「ただし、大型個体の情報は上位の冒険者へ引き継ぎます。皆さんは無理に追跡しないでください」
「分かりました」
ダグラスが答えた。
受付嬢は報酬を渡し、依頼書に達成印を押した。
その後、レオンが成長記録の確認を申し出た。
「今日の戦闘で、どのくらい経験値が増えたか確認したいんです」
「承知しました」
5人は記録台へ向かった。
エリシアが最初に冒険者証を置く。
「……レベル11!」
彼女は嬉しそうに声を上げた。
「上がってる!」
「おめでとうございます」
受付嬢が微笑んだ。
続いてミア。
「私は……レベル12ね」
ダグラスはレベル14。
レオンはレベル15になっていた。
「全員上がった!」
エリシアが喜んだ。
「今回の戦闘は、経験値が多かったみたいだね」
レオンが言った。
「大型個体との交戦も、成長に影響しているのかもしれない」
「でも、もう1回戦いたいかって言われたら嫌ね」
ミアが肩をすくめた。
「本当に危なかったもの」
「同感だ」
ダグラスが頷いた。
「今日は生きて帰れただけでも十分だろう」
最後にジョシュアが冒険者証を確認した。
名前:ジョシュア
レベル:1000
状態:《セフィロト抑制》
表示は変わらない。
受付嬢が確認すると、やはりレベル1だった。
「ジョシュアさんは、変化なしですね」
「はい」
ジョシュアは冒険者証をしまった。
エリシアは少し心配そうに彼を見た。
「でも、今日もジョシュアに助けられたよ」
「そうね」
ミアが頷いた。
「大型個体の攻撃を、何回も先に教えてくれたでしょ」
レオンも口を開いた。
「特に僕が狙われた時は、本当に助かったよ」
「……僕にも、どうして分かったのか分からないんです」
ジョシュアは正直に答えた。
「ただ、あの時は、そう動くと確信できました」
ダグラスは腕を組んだ。
「経験による直感というものもある。本人が覚えていなくても、身体が覚えていることはあるからな」
「身体が……」
ジョシュアは自分の手を見つめた。
確かに、あの瞬間だけは違った。
相手の動きが分かる。
次に何が起こるのか、自然と理解できる。
しかし、それを自分の身体で再現しようとすると、思うように動けない。
まるで、知識と身体が噛み合っていないようだった。
「まあ、考えすぎても仕方ないわよ」
ミアが言った。
「今日はもう帰りましょう。ルイも待ってるし」
「そうだね!」
エリシアが笑った。
「私、お腹空いた!」
「さっきからそればっかりだな」
ダグラスが苦笑する。
「だって、今日はいっぱい動いたもん!」
5人はギルドを後にした。
◇
翌朝。
エリシアはいつもより早く目を覚ました。
窓から差し込む朝日が、部屋の床を照らしている。
彼女は寝台から起き上がり、剣を手に取った。
昨日の戦闘を思い出す。
大型の牙猪。
硬い皮膚。
恐ろしい突進。
そして、攻撃しようとした瞬間に聞こえたジョシュアの声。
あの声がなければ、どうなっていただろう。
エリシアは剣の柄を握り直した。
「……まだまだだなあ」
レベル11。
少し前の自分より、確かに強くなっている。
だが、昨日の相手には何もできなかった。
剣を振るうどころか、まともに近づくことさえ難しかった。
エリシアは窓を開けた。
冷たい朝の空気が流れ込む。
「もっと強くならなきゃ」
小さく呟いた。
誰かを助けようとして、自分が助けられるばかりではいられない。
今度は、自分が仲間を守れるようになりたい。
彼女は剣を腰に差し、部屋を出た。
その頃、ギルドでは新しい依頼書が掲示板に貼り出されていた。
『Eランク以上推奨』
『王都北方・森林地帯の魔物討伐』
『複数個体の討伐実績を持つパーティー優先』
依頼書の下には、ギルド職員による追記があった。
『一定の実績を満たした場合、Dランク昇格審査への推薦対象とする』
まだ誰も、その依頼書の前には立っていなかった。




