傷を負った獣
第46話「傷を負った獣」
朝の冒険者ギルドは、いつも通り騒がしかった。
依頼掲示板の前では冒険者たちが肩を並べ、受付には報酬の精算を待つ列ができている。酒場を兼ねた休憩区画では、朝から酒を飲んでいる者までいた。
エリシアはその光景を眺めながら、欠伸を噛み殺した。
「……眠い」
「昨日は早く寝るって言ってなかった?」
隣にいたミアが尋ねる。
「寝たよ。でも、なかなか眠れなくて」
「何で?」
「次の依頼、何にしようかなって考えてたら、楽しくなっちゃって」
「遠足前の子供じゃないんだから」
ミアは呆れたように笑った。
そこへレオンとダグラスがやってきた。
「おはよう」
「おはようございます」
最後にジョシュアが合流すると、五人は掲示板へ向かった。
「今日は何を受けようか」
レオンが言った。
「昨日は調査だったし、今日は街中の依頼でもいいんじゃない?」
ミアが提案する。
「装備の消耗も少ないし、少し身体を休めたいわ」
「俺も賛成だ」
ダグラスが頷いた。
「昨日は歩き通しだったからな」
「えー、討伐依頼じゃないの?」
エリシアが不満そうに言った。
「昨日の今日で無理する必要はないだろう」
レオンが苦笑する。
「まずは依頼を見てから決めよう」
五人が掲示板へ近づいた、その時だった。
「おい、見たか?」
近くにいた冒険者の声が聞こえた。
「西の旧街道に、Dランク向けの調査依頼が出てるぞ」
「旧街道? あそこって、最近魔物が出るって噂の場所だろ?」
「ああ。何でも岩背狼が住み着いてるらしい」
ジョシュアたちは足を止めた。
エリシアが振り向く。
「……岩背狼?」
ミアも眉を寄せた。
「昨日の……」
五人は顔を見合わせた。
レオンが掲示板の上段を見上げる。
Dランクの区画に、新しい依頼書が張られていた。
『王都西方・旧街道周辺の追加調査』
対象は岩背狼と思われる大型魔物。
目的は個体の識別、負傷状態の確認、周辺への危険度評価。
報酬は5000ユグド。
ただし、受注資格はDランク以上となっていた。
「……私たちは受けられないわね」
ミアが言った。
「そうだね」
レオンが頷いた。
「昨日の報告を受けて、追加調査が決まったんだろう」
エリシアは依頼書を見つめた。
「でも、あの子……」
「エリシア」
ダグラスが声をかける。
「気になるのは分かるが、俺たちが行く必要はない」
「……うん」
エリシアは頷いた。
だが、その表情には少しだけ未練が残っていた。
◇
五人が別の依頼を探していると、受付の方から声がかかった。
「ジョシュアさん、皆さん」
振り向くと、昨日対応してくれた受付嬢が立っていた。
「少しお時間をいただけますか?」
「はい」
ジョシュアが答える。
五人は受付へ向かった。
受付嬢は周囲を確認してから、小声で話し始めた。
「昨日の調査について、追加で確認したいことがあるそうです」
「追加で?」
レオンが尋ねる。
「はい。担当職員がお話を伺いたいとのことです」
五人は顔を見合わせた。
「分かりました」
レオンが答えた。
受付嬢に案内され、五人はギルドの奥にある小さな会議室へ向かった。
◇
会議室には、昨日の年配の男性職員が待っていた。
机の上には、岩背狼の資料が広げられている。
「来てくれて助かった」
男性職員は椅子を勧めた。
「昨日の報告について、少し確認したい」
五人は席に着いた。
「まず、岩背狼の右耳についてだ」
職員は一枚の絵を差し出した。
そこには、右耳の先端が欠けた岩背狼が描かれていた。
「お前たちが見た個体に、こうした特徴はなかったか?」
ミアは絵を覗き込んだ。
「……右耳?」
彼女は少し考えた。
「暗かったから、はっきりとは……」
「私も覚えてない」
エリシアが答えた。
レオンも首を振る。
「僕も確認できていません」
職員は頷いた。
「そうか」
ジョシュアは絵を見つめた。
石橋の下。
暗がりから現れた獣。
灰色の毛並みと、大きな前足。
耳の形までは、思い出せなかった。
「すみません」
ジョシュアが言った。
「僕も、そこまでは見ていませんでした」
「構わん。無理に近づかなかったのは正しい判断だ」
職員は次の資料を取り出した。
「では、背中の突起についてはどうだ?」
そこには、背中の一部が欠けた岩背狼が描かれていた。
エリシアが身を乗り出す。
「……あっ」
四人が彼女を見る。
「何か思い出した?」
レオンが尋ねた。
「うん。確か、背中の右側に……」
エリシアは指で絵をなぞった。
「一本だけ、短い突起があった気がする」
職員の表情が変わった。
「本当か?」
「たぶん。でも、暗かったし……」
「それで十分だ」
職員は頷いた。
「ほかに覚えている者は?」
ダグラスが腕を組んだ。
「……俺も、背中の形が左右で違っていたのは覚えている」
「そうか」
職員は何かを書き留めた。
そして、五人を見回した。
「実は、数年前にも似た特徴を持つ岩背狼が確認されている」
レオンが眉を寄せた。
「同じ個体ということですか?」
「まだ断定はできん。だが、可能性はある」
職員は資料を広げた。
「その個体は、王都北西の山麓で確認された。右耳の先端が欠け、背中の突起が一本折れていた。そして、右後ろ足に古傷があった」
ミアが目を丸くした。
「……全部、今回の特徴と重なるわね」
「そうだ」
職員は頷いた。
「ただし、問題はそこではない」
彼は資料の最後の頁を開いた。
「その個体は、当時の調査で、群れから離れて単独行動していることが確認されていた」
「群れから?」
エリシアが聞き返す。
「ああ。岩背狼は基本的に単独行動だが、繁殖期には一時的に複数で行動することがある。その個体は、ほかの岩背狼と争った後、山麓から姿を消したらしい」
レオンが考え込んだ。
「その時に怪我をした可能性があるんですね」
「そうだ」
職員は頷いた。
「もし同じ個体なら、長い間、右後ろ足の傷を抱えて生き延びていたことになる」
エリシアは静かに資料を見つめた。
「……ずっと、怪我したまま?」
「可能性はある」
職員は答えた。
「ただ、野生の魔物は人間が思う以上に頑丈だ。古傷を抱えて生きる個体も珍しくない」
ミアは腕を組んだ。
「でも、どうして今になって旧街道へ?」
「それが分からん」
職員は首を振った。
「餌が不足したのか、縄張りを追われたのか。あるいは、別の理由があるのかもしれん」
ジョシュアは黙って話を聞いていた。
そして、ふと尋ねた。
「……あの岩背狼は、これからどうなるんですか?」
職員は彼を見た。
「追加調査の結果次第だ」
「討伐される可能性も?」
「ああ」
職員は頷いた。
「人間を襲う危険が高いと判断されれば、討伐対象になる」
ジョシュアは少し考えた。
「……そうですか」
職員は五人を見回した。
「お前たちに頼みたいことは、これで終わりだ。協力に感謝する」
五人は席を立った。
◇
会議室を出た後、エリシアはしばらく黙っていた。
ミアが横目で見る。
「……まだ気になる?」
「うん」
エリシアは小さく頷いた。
「何だか、可哀想だなって」
「気持ちは分かるけどね」
ミアは答えた。
「でも、商人を襲ってるのも事実よ」
「……そうだよね」
エリシアは俯いた。
レオンが口を開いた。
「野生の魔物にとって、人間の荷車は食料の匂いがするものなんだろうね」
「うん」
「だからといって、商人たちに危険を我慢してもらうわけにもいかない」
レオンは続けた。
「難しい問題だと思う」
ダグラスが頷いた。
「俺たちができることは、正確な情報を伝えることだけだ」
ジョシュアは会議室の扉を振り返った。
あの岩背狼が、何年も前から傷を負って生きていたのだとしたら。
どうして今、旧街道に現れたのだろう。
彼は少し考えた。
だが、答えは出なかった。
「……まずは、僕たちにできることをしましょう」
ジョシュアが言った。
エリシアが顔を上げる。
「うん」
五人は再び依頼掲示板へ向かった。
◇
その日の午後。
五人が選んだのは、王都南部の倉庫街での荷物運搬依頼だった。
報酬は2500ユグド。
危険な魔物が出ることもなく、荷物を指定された倉庫へ運ぶだけの仕事だ。
「よいしょ!」
エリシアが木箱を持ち上げる。
「……重っ!」
「無理するなよ」
ダグラスが声をかけた。
「大丈夫!」
エリシアは笑った。
だが、数歩進んだところで足がふらついた。
「わっ!」
ダグラスが慌てて木箱を支える。
「だから言っただろう」
「ごめん……」
ミアが呆れたように笑った。
「戦闘じゃないんだから、力任せにやらなくてもいいのよ」
「分かってるってば!」
レオンは運搬する木箱の数を確認していた。
「あと八箱だね」
「もう少しですね」
ジョシュアが答える。
五人は協力して荷物を運び続けた。
夕方にはすべての運搬が終わり、依頼主から感謝の言葉を受け取った。
「助かったよ。ありがとう」
「こちらこそ!」
エリシアが笑った。
ギルドへ戻ると、報酬の2500ユグドが支払われた。
一人500ユグド。
ミアは満足そうに硬貨をしまった。
「今日は平和だったわね」
「そうだな」
ダグラスが頷いた。
「こういう依頼も悪くない」
レオンが微笑んだ。
「危険が少ない仕事も、冒険者には必要だからね」
ジョシュアは頷いた。
彼らは、少しずつEランクの冒険者として経験を積み始めていた。
◇
同じ頃。
王都西方の旧街道。
古い石橋の下では、一頭の岩背狼が身体を丸めていた。
灰色の毛並みは泥で汚れ、背中の突起には古い傷が残っている。
右後ろ足には、深い傷跡があった。
獣は静かに目を閉じていた。
だが、完全に眠っているわけではない。
時折、耳を動かし、周囲の音を確かめている。
川の流れる音。
風が草を揺らす音。
遠くで鳥が鳴く声。
その中に、別の音が混じった。
ざりっ。
獣の耳が動いた。
ざりっ、ざりっ。
何かが、石橋の上を歩いている。
獣はゆっくりと頭を上げた。
鼻を動かし、匂いを確かめる。
人間の匂い。
それも、一人ではない。
獣は低く唸った。
ぐるるる……。
橋の上から声が聞こえた。
「……いるな」
男の声だった。
「間違いない。岩背狼だ」
別の男が答える。
「どうする?」
「まずは様子を見る。ギルドからは、無理に刺激するなと言われている」
足音が止まった。
獣は暗がりの奥で、じっと身を伏せた。
やがて、橋の上から一人の男が顔を覗かせた。
革鎧を身につけ、腰には剣を下げている。
その後ろには、弓を持った男が立っていた。
「……見つけた」
剣士が呟いた。
獣は牙を剥いた。
ぐるるるる……。
「落ち着け」
剣士は小さく言った。
「こっちは戦いに来たわけじゃない」
言葉が通じるはずもない。
だが、男は剣を抜かなかった。
ゆっくりと後退し、橋の下から離れる。
獣はその姿を見つめていた。
しばらくして、足音が遠ざかる。
獣は再び身体を丸めた。
右後ろ足を舐める。
古い傷跡の周囲には、新しい擦り傷ができていた。
獣は小さく鼻を鳴らした。
そして、目を閉じた。
石橋の上では、二人の冒険者が地図を広げていた。
「どうだった?」
弓使いが尋ねる。
「確かに負傷している。だが、思ったより元気そうだ」
剣士は答えた。
「それに、妙だな」
「何が?」
「……あの足だ」
剣士は橋の下を振り返った。
「古傷だけじゃない。新しい傷がある」
「ほかの魔物と争ったのか?」
「分からん」
剣士は首を振った。
「ただ、あの傷は……」
彼は言葉を止めた。
少し考えてから、地図を畳む。
「一度、ギルドへ報告しよう」
「そうだな」
二人は旧街道を引き返していった。
石橋の下には、再び静けさが戻った。
ただ一頭の獣だけが、暗がりの中で息を潜めていた。




