試験前日
第40話 試験前日
朝、ミアは台所から聞こえる物音で目を覚ました。
何かを落としたような、乾いた音だった。
続いて、床をこする音がする。
「……ルイ?」
返事はない。
ミアは寝台から起き上がり、隣の部屋を覗いた。
小さな食卓の前で、弟のルイがしゃがみ込んでいた。床には木の皿が転がり、その隣には薄く切ったパンが二枚落ちている。
「あ」
ルイが顔を上げた。
「起きちゃった?」
「そりゃ起きるわよ。何してるの?」
「朝ごはん」
「見れば分かるけど」
ミアが近づくと、ルイは慌ててパンを拾い上げた。
「姉ちゃん、昨日すっごく疲れてたから。今日は僕が作ろうと思って」
「パンを切るだけなら作るってほどでもないでしょ」
「でも、切ったよ」
食卓には、厚さの違うパンが何枚も並んでいた。
端が斜めになったものもあれば、真ん中が薄すぎて破れかけているものもある。
ミアはそれを見て、思わず笑った。
「頑張ったのは分かったわ」
「じゃあ成功?」
「半分くらいね」
「えー!」
「まず、床に落としたパンは別にして。それから、包丁を使う時はちゃんと私を呼びなさい」
「はーい」
ルイは素直に返事をした。
ミアは水差しから水を注ぎ、食卓に腰を下ろした。
昨日の訓練で走り回ったせいか、太腿のあたりが少し痛む。
時風は試験前日は休めと言っていた。
あの訓練をもう一日続けることにならなくて、本当によかったと思う。
「姉ちゃん、今日も狼を倒しに行くの?」
「今日は行かないわよ。お休み」
「やった!」
ルイは椅子に飛び乗った。
「じゃあ、一緒に市場行ける?」
「いいわよ。買い物もしないといけないし」
「お肉買う?」
「値段次第」
「昨日、お金もらったんでしょ?」
「よく覚えてるわね」
「だって、帰ってきてからずっと袋見てたじゃん」
ミアは咳払いをした。
「ちゃんと働いてもらったお金なんだから、嬉しいに決まってるでしょ」
「じゃあ、お肉!」
「だから値段次第だってば」
ルイは口を尖らせたが、すぐにパンへ手を伸ばした。
ミアも一枚取る。
硬くて、少し形の悪いパンだった。
それでも、いつもの朝食より美味しく感じた。
◇
同じ頃。
王都の商業区にある鍛冶屋では、エリシアが店主に剣を差し出していた。
「刃こぼれは大したことねえな」
髭の濃い店主は、剣を窓際へ持っていき、光に透かして眺めた。
「ただ、先の方が少し傷んでる。何を斬った?」
「灰牙狼です!」
「ほう。そいつはご苦労さん」
店主は刃を指先で確かめた。
「研ぎ直せば問題ない。夕方には仕上げてやるよ」
「ありがとうございます!」
「明日使うのか?」
「はい! Eランクの昇格試験なんです!」
「そりゃ、しっかり仕上げてやらねえとな」
店主は剣を作業台へ置いた。
エリシアは代金を支払い、店を出た。
朝の商業区は賑やかだった。
野菜を積んだ荷車が通り、露店の商人が声を張り上げている。焼き菓子の甘い匂いが漂い、通りの向こうでは職人たちが荷物を運んでいた。
エリシアは少し歩いたところで足を止めた。
「……剣がないと、なんだか変な感じ」
腰に手をやっても、いつもの柄がない。
落ち着かない。
彼女は空いた手を握ったり開いたりした。
昨日まで、ずっと剣を振る練習をしていた。
今日も少しくらい身体を動かしたい。
けれど、時風から休むように言われている。
「……散歩ならいいよね」
エリシアはそう呟き、通りを歩き始めた。
しばらくすると、見覚えのある銀色の髪が目に入った。
「あれ? レオン!」
書店の前で本を眺めていたレオンが振り向く。
「エリシア。おはよう」
「おはよう! 何してるの?」
「少し調べ物をね」
レオンの手には、薄い冊子があった。
表紙には『冒険者昇格審査の基礎』と書かれている。
「そんな本あるんだ!」
「あるにはあるけど、内容は一般的なものだよ。試験の詳細は公開されていないからね」
「へえ……」
エリシアは冊子を覗き込んだ。
そこには、冒険者に必要な基礎知識や、集団行動の注意点などが記されている。
「レオンって、本当に勉強熱心だね」
「できる準備はしておきたいだけさ」
「私も読んだ方がいいかな?」
「読むのは構わないけど、今から全部覚えようとする必要はないと思うよ」
レオンは本を閉じた。
「それより、今日はちゃんと休んだ方がいい」
「みんな同じこと言うなあ」
「昨日の訓練、相当疲れただろう?」
「うん。足が痛い」
「なら、なおさらだよ」
レオンは微笑んだ。
「試験中に足が動かなくなったら困るからね」
エリシアは少し考え、頷いた。
「分かった。今日は大人しくしてる」
「本当に?」
「本当だってば!」
レオンは笑った。
二人はしばらく通りを歩き、昼前に別れた。
◇
ジョシュアは、宿屋の部屋で目を覚ました。
窓の外から、街の喧騒が聞こえる。
寝台から起き上がり、枕元に置いた剣へ目を向けた。
昨日の訓練では、何度も時風に捕まった。
彼の動きが見えなかったわけではない。
むしろ、最初のうちは見えすぎるほどだった。
足の向き。
重心の移動。
次に踏み込もうとする場所。
それらが一瞬で頭に浮かぶことがあった。
だが、身体は思った通りに動かなかった。
「……変ですね」
ジョシュアは自分の手を見た。
握る。
開く。
特に異常はない。
それでも、時風を前にすると、身体のどこかが噛み合わなくなるような感覚があった。
昨日の最後の一回だけは、伸びてきた手を避けられた。
どうして避けられたのか。
考えてみても、答えは出ない。
ジョシュアは剣を手に取った。
鞘から少しだけ抜き、刃を確かめる。
灰牙狼との戦闘でついた汚れは、すでに落としてあった。
刃に大きな欠けもない。
剣を鞘へ戻す。
今日は休息日だ。
部屋にこもっていても仕方がない。
ジョシュアは外套を羽織り、宿屋を出た。
王都の街路には、朝の光が差し込んでいた。
露店の並ぶ通りを抜け、広場へ向かう。
噴水の周囲では子供たちが遊び、荷物を抱えた人々が行き交っている。
ジョシュアはその光景を眺めながら歩いた。
王都に来てから、色々なことがあった。
冒険者登録。
仲間との出会い。
《煌めき通り》での出来事。
そして、灰牙狼の討伐。
少し前まで、自分が何者なのかさえ分からずにいた。
今も、その答えは見つかっていない。
けれど、昨日は仲間たちと一緒に依頼を達成できた。
それは確かなことだった。
「ジョシュア!」
背後から声がした。
振り向くと、ダグラスが歩いてきた。
「ダグラスさん」
「こんなところで会うとはな」
「散歩をしていたんです」
「俺も似たようなものだ」
ダグラスは肩を回した。
「盾の修理を頼んできたところでな。受け取りは夕方だそうだ」
「腕の方は大丈夫ですか?」
「ああ。昨日よりずっと楽になった」
ダグラスは軽く拳を握って見せた。
「試験には問題ない」
「よかったです」
二人は広場の端にある長椅子へ腰を下ろした。
少しの間、噴水の音を聞いていた。
「緊張してるか?」
ダグラスが尋ねた。
「少しだけ」
「そうか」
「ダグラスさんは?」
「俺もだ」
ダグラスは笑った。
「前の仲間と組んでいた時にも、昇格試験の話は出たことがある。だが、結局受けずじまいだった」
「どうしてですか?」
「依頼の都合が合わなかったり、誰かが怪我をしたり。そうしているうちに、別々の道を進むことになった」
ダグラスは噴水を見た。
「仲が悪くなったわけじゃない。ただ、冒険者を続けていると、そういうこともある」
「……そうなんですね」
「ああ」
ダグラスは頷いた。
「だから、今回は五人で受けられるのが嬉しいんだ」
ジョシュアは彼を見た。
「僕もです」
「そうか」
ダグラスは笑った。
「なら、明日は全員で合格しないとな」
「はい」
ジョシュアも笑った。
◇
昼を過ぎた頃。
冒険者ギルドの二階では、昇格審査の準備が進められていた。
「明日の受験者は、全部で十二名です」
職員が書類を並べる。
向かいに座る年配の試験官は、受験者名簿に目を通していた。
「個人申請が七名、五人組が一組か」
「はい。五人組は、昨日灰牙狼の討伐依頼を達成した方々です」
「ほう」
試験官は名簿をめくった。
エリシア。
レオン。
ミア。
ダグラス。
ジョシュア。
「五人ともFランクか」
「はい」
「討伐実績は?」
「今回の灰牙狼三体のほか、これまでの依頼履歴を確認済みです。申請条件は満たしています」
試験官は頷いた。
「なら、問題ない」
彼は別の書類を取り出した。
「試験内容は予定通りでいいな?」
「はい。午前中に基礎審査、午後に実技審査を行います」
「分かった」
試験官は名簿を閉じた。
「受験者には、開始時刻に遅れないよう伝えておいてくれ」
「承知しました」
職員は書類をまとめ、部屋を出ていった。
試験官は窓の外を眺めた。
訓練場では、数人の冒険者が木剣を振っている。
彼はしばらくその様子を見た後、机に置かれた名簿へ視線を戻した。
「五人組、か」
小さく呟き、次の書類を開いた。
◇
夕方。
ジョシュアが宿屋へ戻ろうとしていると、通りの向こうから賑やかな声が聞こえてきた。
「だから、買いすぎだって言ったでしょ!」
「でも、安かったよ!」
「安くても、全部食べきれなかったら意味ないの!」
ミアとルイだった。
二人は買い物袋を抱えて歩いている。
ルイがジョシュアに気づいた。
「あっ! ジョシュア兄ちゃん!」
「こんにちは、ルイ君」
ジョシュアは手を振った。
ルイが駆け寄ってくる。
「ねえねえ! 姉ちゃん、明日試験なんでしょ?」
「そうですよ」
「ジョシュア兄ちゃんも?」
「はい」
「じゃあ、絶対受かってね!」
ジョシュアは少し驚いた。
「……ありがとうございます」
「姉ちゃんが受かったら、お祝いするんだ!」
「ちょっと、ルイ!」
ミアが慌てて近づいてきた。
「まだ受かるって決まってないんだから!」
「でも、受かるでしょ?」
「それは……頑張るけど」
ミアは言葉を詰まらせた。
ルイは不思議そうに首を傾げる。
「じゃあ、いいじゃん」
ジョシュアは思わず笑った。
「そうですね」
「ジョシュアまで!」
ミアが頬を膨らませる。
そこへ、エリシアの声が響いた。
「あっ、みんないる!」
振り向くと、エリシアとレオンが歩いてきた。
少し遅れて、盾を背負ったダグラスも姿を見せる。
「偶然だな」
ダグラスが笑った。
「本当だね」
レオンが頷く。
こうして、五人が揃った。
ルイは一人ずつ顔を見回し、嬉しそうに笑った。
「みんな、明日試験なの?」
「そうだよ!」
エリシアが答える。
「みんなでEランクになるんだ!」
「すごい!」
ルイは目を輝かせた。
ミアは弟の頭を軽く撫でた。
「まだ試験を受けるだけよ」
「でも、頑張るんでしょ?」
「もちろん」
ミアは笑った。
レオンが空を見上げる。
「そろそろ日が暮れるね」
「明日は朝九時だったな」
ダグラスが確認する。
「うん!」
エリシアが頷いた。
「遅刻しないようにしないと!」
「特にエリシアね」
ミアが言った。
「えっ、なんで私!?」
「昨日、集合時間より早く来てたのに、途中で寝そうになってたじゃない」
「あれは訓練が大変だったから!」
「明日は試験なんだから、ちゃんと寝なさいよ」
「分かってるってば!」
レオンが笑った。
「じゃあ、明日は少し早めに集まろうか」
「そうだな」
ダグラスが頷いた。
「八時半にはギルド前に集合でどうだ?」
「賛成!」
エリシアが手を上げた。
ミアも頷く。
「私も大丈夫」
「僕も問題ないよ」
レオンが答えた。
ジョシュアも頷いた。
「分かりました」
ルイが元気よく手を上げた。
「僕も行く!」
「ルイは駄目」
ミアが即答した。
「えー!」
「試験が終わるまで待ってなさい」
「じゃあ、終わったら迎えに行っていい?」
「それならいいわよ」
「やった!」
ルイは嬉しそうに飛び跳ねた。
五人は顔を見合わせ、笑った。
その時、通りの向こうから声がした。
「おーい!」
時風だった。
片手に酒瓶を持ち、上機嫌で歩いてくる。
「おお、全員揃ってるじゃないか!」
「時風さん!」
エリシアが手を振った。
「明日の話をしてたんだよ!」
「そうかそうか!」
時風は笑った。
「準備はできたか?」
「はい!」
エリシアが答える。
「剣も研いでもらったし、明日は頑張るよ!」
「いいじゃないか!」
時風は頷いた。
「ただ、あんまり気負うなよ」
五人が彼を見る。
「試験だからって、普段と違うことをしようとする必要はない。昨日までやってきたことを、そのままやればいいんだ」
レオンが頷いた。
「確かに、その通りだね」
「それに」
時風は楽しそうに笑った。
「失敗したって、また受ければいいんだからな!」
「ちょっと!」
エリシアが抗議する。
「明日受かるつもりなんだけど!」
「はははっ! そりゃ失礼!」
時風は笑った。
ミアは小さく息を吐いた。
「まったく……」
けれど、彼女の表情からは、先ほどまでの緊張が少し薄れていた。
時風は酒瓶を持ち直した。
「じゃあ、俺はそろそろ行くぞ!」
「どこへ?」
エリシアが尋ねる。
「酒場!」
「また!?」
「はははっ! 今日はいい酒が入ったらしいからな!」
時風は手を振り、通りの向こうへ歩いていった。
その背中を見送りながら、ダグラスが呟いた。
「本当に、自由な人だな」
「そうね」
ミアが頷いた。
「でも、言ってることは間違ってないわ」
レオンが微笑んだ。
「僕たちは、僕たちのできることをすればいい」
ジョシュアは頷いた。
「はい」
エリシアは両手を握った。
「よし!」
彼女は四人を見回した。
「明日、絶対合格しようね!」
ダグラスが頷く。
「ああ」
「もちろん」
ミアが答えた。
「全力を尽くそう」
レオンも頷いた。
ジョシュアは仲間たちを見つめた。
それから、静かに笑った。
「はい。五人で」
夕日が街路を赤く照らしていた。
明日の朝九時。
彼らは、初めての昇格試験に挑む。




