十分間の鬼ごっこ
第39話 十分間の鬼ごっこ
翌朝。
王都の南門を抜けた先にある冒険者用訓練場には、まだ朝露が残っていた。
広い土の地面には幾つもの足跡が刻まれ、周囲には木製の人形や的が並んでいる。奥には低い柵で囲われた区画があり、そこでは数人の冒険者が木剣を打ち合わせていた。
「おはようございます!」
エリシアが元気よく声を上げた。
すでに訓練場の中央にいた時風が、片手を上げる。
「おう! 早かったな!」
「今日は特別訓練なんでしょ?」
「そうだぞ!」
「何するの?」
「まあ、待て待て。全員揃ってからだ!」
時風は楽しそうに笑った。
エリシアは腰の剣に手を添えた。
昨日の灰牙狼討伐で、五人の連携は少しだけ形になった。けれど、時風を相手にした訓練では、まだ一度もまともに勝てていない。
今日こそは。
そう考えているうちに、ジョシュアが姿を現した。
「おはようございます」
「おはよう、ジョシュア!」
エリシアが手を振る。
ジョシュアは彼女の隣に立ち、訓練場を見回した。
「今日は、何をするんでしょうか」
「まだ教えてくれないんだよ」
「そうなんですね」
ジョシュアが時風を見ると、彼は笑って手を振った。
やがてレオン、ダグラス、ミアも到着した。
「おはよう」
レオンが杖を持ち直す。
「今日は少し風が強いね」
「訓練にはちょうどいいだろう」
ダグラスが答えた。
最後にやってきたミアは、眠そうに目を擦っていた。
「おはよ……」
「眠そうだね」
エリシアが笑う。
「昨日、ルイがなかなか寝なくてね。帰ってからずっと、灰牙狼の話を聞かせてって」
「弟さん、元気そうですね」
ジョシュアが言った。
「元気すぎるくらいよ。私が狼に食べられなかったか、何回も聞いてくるんだから」
ミアはそう言いながらも、少し嬉しそうだった。
「さて!」
時風が手を叩いた。
「全員揃ったな!」
五人が彼の方を向く。
「今日は、お前らに足りないものを鍛える!」
「足りないもの?」
エリシアが首を傾げた。
「そうだ!」
時風は地面に置かれた武器立てを指さした。
「まず、武器を全部置け!」
「え?」
ダグラスが聞き返した。
「盾もか?」
「盾もだ!」
レオンが眉を上げた。
「魔法も使わないんですか?」
「使わない!」
「じゃあ、何をするの?」
ミアが尋ねる。
時風は笑った。
「鬼ごっこだ!」
五人は黙った。
遠くで、木剣同士がぶつかる乾いた音が響いた。
「……鬼ごっこ?」
エリシアが聞き返す。
「おう!」
時風は頷いた。
「俺が鬼。お前らが逃げる側だ!」
「それが特別訓練?」
「そうだとも!」
ミアは腕を組んだ。
「何だか、子供の遊びみたいね」
「遊びだからな!」
「認めるの!?」
時風は声を上げて笑った。
「ただし、簡単には終わらんぞ」
彼は指を一本立てた。
「制限時間は10分間。俺がお前らの誰か一人に触れたら、そこで全員負けだ」
「一人でも?」
ダグラスが尋ねた。
「一人でもだ」
「それは……」
レオンが少し考え込んだ。
時風の足の速さは、昨日までの訓練で嫌というほど思い知らされている。
まともに追いかけられれば、逃げ切るのは難しい。
「全員で逃げ切れたら、僕たちの勝ちですか?」
ジョシュアが尋ねた。
「その通り!」
時風は笑った。
「じゃあ、始めようか!」
◇
最初の挑戦は、あっけなく終わった。
「はい、捕まえた!」
「えっ!?」
エリシアの肩に、時風の手が置かれていた。
開始から、まだ10秒ほどしか経っていない。
「ちょっと待って! 今の速すぎない!?」
「逃げろって言っただろ?」
「逃げたよ!」
「もっと速く逃げればよかったな!」
時風は楽しそうに笑った。
二回目。
ミアは訓練場の端にある木製の障害物を利用した。
低い柵を飛び越え、身を屈めて方向を変える。
獣人である彼女の身軽さは、五人の中でも際立っていた。
「これなら!」
振り返った瞬間、目の前に時風がいた。
「おっと、こっちだぞ」
「きゃっ!?」
肩を叩かれ、ミアはその場で固まった。
「……どうやって先回りしたのよ」
「走ってきた!」
「それは分かってるわよ!」
三回目はレオンだった。
彼は開始と同時に大きく距離を取り、時風の動きを観察しながら逃げるつもりだった。
しかし、時風は途中で突然進路を変えた。
「え?」
レオンが反応するより早く、時風の手が肩に触れた。
「はい、終わり!」
「……なるほど。そう来るのか」
四回目。
ダグラスは仲間たちの前に立ち、時風の進路を塞ごうとした。
だが、時風は彼の横を通り抜けると見せかけ、急に引き返した。
「おっと」
「なっ!?」
ダグラスの背中に手が触れる。
「はい、捕まえた!」
五回目。
ジョシュアは最初から時風の動きを見ていた。
誰を狙うのか。
どちらへ踏み込むのか。
目線と足の向きを確かめようとした。
時風が右へ動く。
ジョシュアは左へ避けた。
だが、次の瞬間には時風が目の前にいた。
「はい!」
肩に手が触れる。
「……あ」
ジョシュアは瞬きをした。
時風は笑った。
「よく見てたな!」
「……でも、捕まりました」
「そうだな!」
彼は手を離した。
「見えてても、動けなきゃ意味がないってことさ!」
五人は訓練場の端に集まった。
エリシアは膝に手をつき、息を整えている。
「……一回も勝てない」
「そりゃそうよ」
ミアが額の汗を拭った。
「相手が時風さんなんだから」
レオンは腕を組んだ。
「でも、この訓練には何か意図があるはずだよ」
「足を速くするためじゃないのか?」
ダグラスが尋ねる。
「それだけなら、五人で逃げる必要はないと思う」
レオンは時風を見た。
彼は少し離れた場所で、木の枝を拾って遊んでいた。
「……誰か一人でも捕まったら負け」
ジョシュアが呟いた。
四人が彼を見る。
「どうしたの?」
エリシアが尋ねた。
「……僕たちは、ずっと自分だけで逃げようとしていました」
ジョシュアは続けた。
「でも、それだと時風さんは、逃げやすそうな人を選んで捕まえるだけです」
「……確かに」
ミアが頷いた。
「私たちが別々に逃げても、時風さんには関係ないものね」
ダグラスが腕を組んだ。
「なら、仲間が狙われたら助ければいいのか」
「そうだと思います」
ジョシュアは頷いた。
レオンが小さく笑った。
「昨日の灰牙狼と同じだね」
「え?」
エリシアが首を傾げる。
「僕たちが別々に戦っていたら、狼の群れに囲まれて負けていた。でも、互いの動きを見て戦えば、相手の行動を制限できた」
「じゃあ、鬼ごっこでも同じことをすればいいんだ!」
「そういうこと」
レオンは地面に指で簡単な図を描いた。
「ただし、今回は攻撃も魔法も使えない。誰かが追われたら、別の人が声をかけて逃げ道を教える。時風さんの位置も、全員で共有しよう」
「俺は、進路を塞ぐ役をやってみる」
ダグラスが言った。
「触れられたら負けなんだから、無理に止めようとしないでね」
ミアが釘を刺す。
「ああ。少しでも遠回りさせられれば十分だ」
エリシアが拳を握った。
「よし! やってみよう!」
◇
六回目。
「準備はいいか?」
時風が尋ねた。
「はい!」
五人が答える。
「じゃあ、始め!」
時風が地面を蹴った。
狙われたのはエリシアだった。
「エリシア、左!」
ジョシュアが叫ぶ。
「分かった!」
エリシアは左へ走った。
その進路には、ダグラスが待っている。
時風は彼を避けるために横へ動いた。
「ミア、そっちに行きます!」
「見えてる!」
ミアは素早く位置を変えた。
時風は笑った。
「おお、いいじゃないか!」
そして、突然方向を変えた。
今度はジョシュアへ向かう。
「ジョシュア!」
レオンが叫んだ。
ジョシュアは反射的に後ろへ下がった。
だが、時風の方が速い。
「はい、捕まえた!」
肩に手が触れる。
終了。
それでも、五人はすぐには落ち込まなかった。
「……今、どれくらいだった?」
ミアが尋ねる。
レオンは砂時計を確認した。
「約一分だね」
「一分!?」
エリシアが驚いた。
「さっきよりずっと長い!」
ダグラスが頷いた。
「少しは効果があったな」
ジョシュアも息を整えながら頷いた。
「……はい」
時風は満足そうに笑った。
「そうそう! その調子だ!」
彼は五人を見回した。
「ただ、まだ声をかけるのが遅いな。相手が動いてから教えても、間に合わないことがあるぞ!」
レオンが考え込む。
「……予測が必要ってことか」
「そうだ!」
時風は頷いた。
「今どこにいるかだけじゃなく、次にどこへ行きそうか。それを考えてみろ!」
七回目。
八回目。
九回目。
五人は何度も挑戦した。
捕まるたびに作戦を変え、立ち位置を調整する。
エリシアは相手の動きにつられて無闇に走らなくなった。
ミアは足の速さを活かし、仲間の逃げ道を確保するようになった。
ダグラスは自分が捕まらない距離を保ちながら、時風の進路を制限した。
レオンは全体の位置関係を確認し、声をかける順番を考えた。
ジョシュアは時風の動きを追いながら、仲間たちへ指示を出した。
そして、十回目。
「……残り三分!」
レオンの声が響いた。
五人は訓練場を走り回っていた。
時風は笑いながら、その後を追っている。
「いいぞ! だいぶ慣れてきたな!」
「時風さん、余裕ありすぎ!」
エリシアが叫んだ。
「そりゃそうだ!」
時風は笑った。
彼が急に方向を変える。
「ミア、後ろ!」
ジョシュアが叫んだ。
「分かってる!」
ミアは身を屈め、時風の手を避けた。
そのまま地面を蹴り、ダグラスの方へ走る。
「ダグラス!」
「おう!」
ダグラスは進路を空け、時風が追ってくる方向へ一歩踏み出した。
時風は彼に触れないように迂回する。
その隙にミアが距離を取った。
「……あと二分!」
レオンが叫ぶ。
五人の呼吸は荒くなっていた。
足も重い。
だが、誰も立ち止まらなかった。
「エリシア、右!」
「うん!」
「ダグラス、後ろに回って!」
「分かった!」
声が飛び交う。
時風は楽しそうに笑っていた。
そして、突然速度を上げた。
「……っ!」
ジョシュアの目の前に現れる。
手が伸びる。
ジョシュアは反射的に身体を引いた。
指先が、肩のすぐ横を通り過ぎる。
「おっと!」
時風が笑った。
「今のはよかったな!」
ジョシュアは答える余裕もなく走った。
「……あと一分!」
レオンが叫ぶ。
エリシアは必死に足を動かした。
ミアは息を切らしながら、周囲を見回している。
ダグラスは額の汗を拭う暇もない。
時風は、今度はレオンへ向かった。
「……っ!」
レオンが走る。
だが、足がもつれた。
「危ない!」
エリシアが叫んだ。
レオンは咄嗟に身体を捻り、転倒を避けた。
その瞬間、時風の手が伸びる。
「レオン、左!」
ジョシュアが叫ぶ。
レオンは左へ跳んだ。
時風の手が空を切る。
「……あと十秒!」
ミアが叫んだ。
五人は最後の力を振り絞って走った。
時風は笑っていた。
「はははっ! あと少しだぞ!」
そして、突然ミアへ向かう。
「……っ!」
ミアは横へ跳んだ。
だが、着地した足が滑った。
「しまっ!」
身体が傾く。
そこへ、ダグラスが手を伸ばした。
「ミア!」
彼はミアの腕を掴み、引き寄せた。
二人はそのまま横へ倒れ込む。
時風の手が、ミアの肩へ伸びた。
その瞬間。
「時間!」
レオンが叫んだ。
時風の手が止まった。
ミアの肩まで、あとわずか。
五人は、しばらく動かなかった。
時風はゆっくりと手を引いた。
「……お見事!」
彼は笑った。
「お前らの勝ちだ!」
「……え?」
エリシアが目を瞬かせた。
「勝ち?」
「おう!」
時風は頷いた。
「10分間、誰も捕まらなかった!」
その瞬間。
「やったあああ!」
エリシアが両手を上げた。
ミアは地面に座り込んだまま、深く息を吐いた。
「……疲れた」
レオンも膝に手をついた。
「……本当に、ぎりぎりだったね」
ダグラスが笑った。
「だが、勝てたな」
ジョシュアは息を整えながら頷いた。
「……はい」
時風は五人を見回した。
「いいじゃないか!」
彼は満足そうに笑った。
「昨日より、ずっと仲間の動きが見えるようになったな!」
◇
訓練が終わった頃には、太陽が高く昇っていた。
五人は訓練場の端に座り、水を飲んでいた。
時風は近くの店で買ってきた果物を配っている。
「ほら!」
「ありがとう」
ミアが受け取った。
エリシアは果物をかじりながら、空を見上げた。
「……明日も訓練するの?」
「いや、明日は休め」
時風が答えた。
五人が顔を上げる。
「休むんですか?」
レオンが尋ねた。
「おう!」
時風は頷いた。
「試験の前日に無理して、身体を痛めたら意味ないだろ?」
ダグラスが頷いた。
「確かに」
ミアは安堵したように息を吐いた。
「よかった……」
「ただし、装備の点検くらいはしておけよ!」
時風は笑った。
「剣が欠けてたり、盾が壊れかけてたりしたら困るだろ?」
「うん!」
エリシアが答えた。
ジョシュアは水を飲みながら、時風を見つめた。
「時風さん」
「ん?」
「どうして、僕たちにここまでしてくれるんですか?」
時風は目を瞬かせた。
そして、笑った。
「面白いからだよ!」
「……面白い?」
「おう!」
時風は頷いた。
「お前らがどこまで強くなるのか、見てみたいんだ!」
ジョシュアは少し考えた。
「そうなんですね」
「そういうこと!」
時風は笑った。
エリシアが立ち上がった。
「じゃあ、試験に合格したら、また訓練してくれる?」
「もちろん!」
時風は頷いた。
「その時は、もっと面白いことを考えておくさ!」
「やった!」
エリシアは嬉しそうに笑った。
ミアは小さくため息をついた。
「……また変な訓練をさせられそうね」
レオンも苦笑した。
「でも、効果はあったからね」
ダグラスが頷いた。
「ああ。今日の訓練で、仲間の位置を意識することがどれだけ大事か分かった」
ジョシュアも頷いた。
「僕もです」
時風は五人を見回した。
「よし!」
彼は手を叩いた。
「じゃあ、明日はゆっくり休め!」
そして、楽しそうに笑った。
「明後日の昇格試験、頑張ってこいよ!」
五人は頷いた。
それぞれの胸に、期待と緊張を抱えながら。
試験の日は、もうすぐそこまで迫っていた。




