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閉ざされた記憶

 朝食のパンを食べ終えるころ、エリシアは3度目のため息をついた。


「だから、今日中に仕事を見つけるの。分かった?」

「うん。昨日も聞いたよ」

「聞いたなら、もう少し焦ってくれてもいいんだけど」


 ジョシュアは空になった皿を見た。昨日は彼女に食事を買ってもらい、昨夜は宿の食堂を片づける代わりに物置の床で眠らせてもらった。今朝のパンも、宿の主人が余り物を分けてくれたものだ。


 世話になりっぱなしなのは間違いない。


「焦ってはいるよ。何から始めればいいか分からないだけで」

「それを先に言いなさいよ」


 エリシアは椅子から立ち上がった。


「まずはギルド。働くなら登録しないとね」


 食堂の窓から差し込む光は明るい。外では荷車の車輪が石畳を鳴らしていた。


 ジョシュアは黒と白の制服の袖を整え、彼女の後を追った。


 宿を出るとき、主人に呼び止められた。


「兄ちゃん、その服で仕事に行くのか?」

「ほかに持っていないので」

「そうか。……汚すなよ。俺なら怖くて着られん」


 主人は袖口の刺繍をちらりと見て、何か言いたげに口を閉じた。


 ジョシュアは礼を言って宿を出た。自分の服のどこがそんなに珍しいのか、まだ分からなかった。


◇


 冒険者ギルドは、街の中心部にあった。


 大きな石造りの建物には剣と盾の紋章が掲げられ、入口から絶えず人が出入りしている。中に入ると、壁一面の掲示板に依頼書が並んでいた。


「ここで仕事を探すの?」

「そう。採取、護衛、討伐、雑用。依頼は色々あるわ。私みたいなFランクは、まだ受けられない仕事も多いけど」


 エリシアは空いている受付へ進んだ。


「おはようございます、リーナさん」

「あら、エリシアさん。今日はお一人ではないんですね」

「この人を登録させたくて」


 眼鏡をかけた受付係は、ジョシュアに向き直った。


「お名前をお願いします」

「ジョシュアです」

「年齢と出身地は?」

「すみません。分かりません」


 リーナはペンを止めた。


 エリシアが、昨日の朝に記憶を失った状態で見つかったことを手短に説明する。


「身分を証明するものもないんです」

「そうですか。少し確認しますので、お待ちください」


 リーナが奥へ引っ込むと、エリシアは受付台にもたれた。


「登録できなかったら、荷運びでも探しましょ」

「荷運びなら得意かもしれない」

「どうして?」

「昨日、ルカを追いかけたとき、思ったより速く走れたから」

「荷物を運ぶのと走るのは違うでしょ」


 エリシアは笑ったが、すぐに首を傾げた。


「……そういえば、あんた、かなり速かったわね」


 リーナが戻ってきたのは、その直後だった。


「責任者の許可が出ました。身元確認が済むまで仮登録となりますが、試験に合格すれば指定の依頼を受けられます」

「試験?」

「はい。初めての方には、採取依頼をお願いしています。ギルドの決まりを守り、依頼品を持ち帰れるかを見るものです」


 リーナは受付台の下から、掌に収まる薄い金属板を取り出した。


「その前に、登録証を発行します。こちらに手を置いてください」


 金属板の中央には、透き通った石がはめ込まれていた。


「登録証には、ご本人のレベルや能力が記録されます。ただし、詳細を閲覧できるのは原則としてご本人だけです」


 リーナは説明を続けた。


「ギルドでは試験の安全確認のため、レベルと基礎能力を確認させていただく場合があります。今回、その範囲だけ公開を許可していただけますか?」


「はい。構いません」


「ありがとうございます。では、石に触れてください」


 ジョシュアが触れると、石の奥に淡い光が灯った。


 金属板の表面に細かな文字が浮かび上がる。リーナはジョシュアの許可を確認してから、受付側に現れた情報を読み取った。


「レベル1、ですね」


 そこまでは何事もなかった。


 ところが、続く表示を見た途端、リーナの声が途切れた。


「どうしました?」

「いえ、その……少々お待ちください」


 リーナは表示を確かめ直した。


「ジョシュア様。これまでに戦闘の訓練を受けたことはありますか?」

「覚えていません」

「そうでしたね……」


 エリシアが首を傾げた。


「何かおかしいんですか?」

「基礎能力が、通常のレベル1の方と大きく異なっています。これほど高い値が並ぶのは珍しいことです」


 リーナは表示を伏せた。


「詳しい数値は、ご本人の情報ですので、こちらからお伝えすることはできません」


「そっか。じゃあ、ジョシュアが教えてくれなきゃ分からないのね」


 エリシアはあっさり引き下がった。


 ジョシュアは自分の手を見下ろした。昨日、ルカを追いかけたときも、思った以上に速く走れた。だが、それがどの程度珍しいことなのかは分からない。


「登録は、できないんでしょうか」

「いいえ。能力が高いこと自体は問題ありません。実際に依頼をこなせるかどうかは別ですから」


 リーナは金属板を差し出した。


「こちらが仮登録証です。ご本人も確認してください」


 ジョシュアは受け取った。


 その瞬間、表面の文字が揺れた。


 最初に見えたのは、自分の名前だった。


 次に、レベルの欄。


 そこには、先ほどリーナが口にした「1」ではなく、「1000」と記されていた。


 ジョシュアは目を瞬いた。


 見間違いかと思い、もう一度確かめる。


 だが、数字は変わらない。


 その下には、現在の能力を示す項目が並んでいた。さらに、見覚えのない文字が浮かび上がる。


 状態異常――《セフィロト抑制下》。


 全スキル使用不可。

 ステータス抑制。

 記憶へのアクセス不可。


 ジョシュアは息を止めた。


 意味の分からない言葉ばかりだった。


 だが、最後の一文だけは違う。


 記憶へのアクセス不可。


 それは、記憶が失われたのではなく、何かによって閉ざされているという意味ではないのか。


 もう一度表示を確かめようとしたときだった。


『ああ、それは誰にも言わないでね』


 突然、声がした。


 ジョシュアは顔を上げた。


 耳元ではない。


 頭の内側から、直接言葉が響いてくる。


『せっかく隠してあげたんだから。外から見える結果は、いい感じにこっちで調整しておいてあげるよ』


 妙に気安い口調だった。


 まるで、以前からジョシュアを知っているかのような。


『だから、余計なことは言わないこと。分かった?』


 ジョシュアは思わず周囲を見回した。


 リーナは書類を整えている。エリシアは受付台の横で待っていた。


 誰も声に反応していない。


『じゃあ、頑張ってね』


 それきり、声は聞こえなくなった。


「ジョシュア?」


 エリシアに肩を叩かれ、ジョシュアは我に返った。


「……何?」

「何って、急に黙るから。大丈夫?」

「うん。少し、驚いて」


 登録証に目を戻す。


 レベル1000。


 その数字は、まだそこにあった。


「表示は読めましたか?」


 リーナが尋ねた。


「……はい」

「もし記載に誤りがあれば、申告してくださいね」


 ジョシュアは口を開きかけた。


 けれど、先ほどの声を思い出して言葉を飲み込む。


 自分に見えているものと、他人に見えているものが違う。


 それだけは分かった。


「……大丈夫です」


 リーナは頷き、書類に印を押した。


「それでは、仮登録は完了です」


 ジョシュアは登録証を握り直した。


 自分のことを何も知らないと思っていた。


 だが、どうやら自分について何かを知っている者がいるらしい。


 それも、普通では考えられない方法で、情報を隠せる誰かが。


 その事実が、ひどく落ち着かなかった。


◇


 受付を離れると、エリシアがジョシュアの服を改めて眺めた。


「そういえば、あんたの服って、ずいぶん立派よね」


「さっきも宿の人に言われたよ」

「だって、見たことないもの。あんな細かい刺繍、普通の仕立て屋じゃできないわよ」


 ジョシュアは袖口を見た。


 白い布地には、糸の重なりがほとんど分からないほど精巧な模様が施されている。肩に掛かった黒い布も、薄いのにしっかりとした張りがあった。


 言われてみれば、街で見かけた服とは随分違う。


「どこで作られたんだろう」

「それを私が聞きたいんだけど」


 エリシアは苦笑した。


 その会話を聞いていたらしい冒険者が、近くから声をかけてきた。


「おい、そいつ、新入りか?」


 振り向くと、革鎧を着た男が立っていた。


「ええ。今日、仮登録したところよ」


 エリシアが答える。


 男はジョシュアの服を見つめた。


「その格好、どこかの貴族か?」

「分かりません」

「分からんって……自分の服だろ?」


「記憶を失ってるのよ」


 エリシアが説明すると、男は気まずそうに頭を掻いた。


「そうか。悪かったな」


 男の隣にいた冒険者が、声を潜める。


「しかし、あの仕立ては尋常じゃないぞ。貴族の服でも、あんなのは滅多に見ない」


「そういや、受付で能力がどうとか言ってたな」


「……まさか、トドロキ家の人間じゃないだろうな?」


 その名前が出た途端、エリシアの表情が変わった。


「ちょっと、勝手なこと言わないでよ」

「いや、可能性の話だって」


 ジョシュアは首を傾げた。


「トドロキ家って何?」


 エリシアがこちらを向いた。


「……本当に知らないの?」

「うん」


 彼女はしばらくジョシュアを見つめた後、ため息をついた。


「今のユグド王国の王様、トドロキ・アルザード陛下。その王様が属する一族よ」


「王様の家族?」


「それだけじゃないわ。トドロキ家は、昔からとんでもなく強い人たちがいることで知られてるの」


 近くにいた年配の冒険者が口を挟んだ。


「末端の人間でも、身体能力だけなら騎士団の副団長を超えるって話だ。あの家の連中を、俺たちの物差しで測るなよ」


「そんなに?」


 ジョシュアが尋ねると、男は頷いた。


「もっとも、服が立派で身体能力が高いだけじゃ、トドロキ家の人間とは決まらん。変な噂を広めるなよ」


 最初に口を開いた冒険者は肩をすくめた。


 エリシアはジョシュアに向き直った。


「だからって、気にしなくていいからね。あんたが誰かなんて、今ここで分かることじゃないんだし」


「……うん」


 ジョシュアは登録証に触れた。


 トドロキ家。


 レベル1000。


 セフィロト抑制。


 知らない言葉が、また増えてしまった。


 それでも、今すぐ答えが見つかるわけではない。


 ジョシュアは登録証をしまい、エリシアの後を追った。


◇


「それでは、試験の説明をします」


 受付に戻ると、リーナが1枚の依頼書を広げた。


「街の東にある林で、指定の薬草を採取してきてください。採取場所と見本はこちらです。日没までに戻り、規定の量を納品できれば合格です」


 紙には葉の形と特徴が描かれていた。


「林には魔物が出ることもあります。危険を感じたら、採取を中断して帰還してください。戦闘は試験の必須条件ではありません」


「付き添いはできますか?」


 エリシアが尋ねた。


「できます。ただし、採取と判断は原則として登録者本人が行ってください。護衛や助言は構いませんが、代わりに依頼を完了させることは認められません」


「分かりました」


 エリシアはジョシュアに顔を向けた。


「薬草の見分け方、教えてあげるわ」

「詳しいの?」

「もちろん」


 リーナが見本の絵を指さした。


「ちなみに、この薬草とよく似た毒草も生えています。葉の裏側を必ず確認してくださいね」


 エリシアは一瞬、目をそらした。


「……そこは大事よね」


 ジョシュアは見本をよく見た。


 似ている2種類の葉。その違いは、裏側の筋の色と、茎の根元にある小さな突起だった。


「間違えないようにするよ」


 依頼書を受け取ると、エリシアが入口へ向かった。


「それじゃ、行きましょ。明るいうちに戻らないと」


 ジョシュアは彼女に続いた。


 扉を出る直前、もう1度だけ登録証を取り出す。


 レベル1000。


 その下に並ぶ、使えない能力と閉ざされた記憶の表示。


 彼は登録証をしまった。


 今すぐ確かめる方法はない。それに、目の前にはやらなければならない仕事がある。


「ジョシュア、置いてくわよ!」

「今行く!」


 小走りで追いつくと、エリシアは林へ続く道を指さした。


「初めての依頼なんだから、勝手に先へ行かないでよ」

「分かった」


 ジョシュアは頷いた。


 昨日まで、自分が何者なのか分からなかった。


 今日も、それは変わらない。


 けれど、手の中には初めて自分の名前が刻まれた登録証があった。


 2人は街の東門へ向かって歩き出した。

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