明日の食事代
第3話 明日の食事代
パンの最後の一口を飲み込んだところで、ジョシュアは足を止めた。
「どうしたの?」
先を歩いていたエリシアが振り返る。
「ごちそうさま。おいしかった」
「……わざわざ立ち止まって言うこと?」
「ちゃんとお礼を言ってなかったから」
「さっきから何回も言ってるじゃない」
エリシアはそう言いながらも、少し嬉しそうだった。
夕暮れの大通りには、仕事帰りの人々が行き交っていた。店先では商人が商品を片づけ始め、屋台からは夕食を求める客の声が聞こえてくる。
ジョシュアは自分の腹を軽く押さえた。
ようやく空腹が落ち着いた。さっきまで頭の中を占めていた食べ物のことも、今なら少し脇に置いておけそうだ。
「ところで、診療所はあとどのくらい?」
「この先の角を曲がって、もう少し。薬屋のおじさんがそう言ってたわ」
エリシアは紙片を広げ、書かれた道順を確かめた。
「……たぶん」
「たぶん?」
「初めて行く場所なんだから仕方ないでしょ」
ジョシュアが笑うと、エリシアは紙片を畳んで歩き出した。
角を曲がると、大通りの喧騒が少し遠ざかった。
石造りの建物が並ぶ通りの奥に、白い布を掲げた小さな診療所があった。布には、杖に巻きつく蔓のような紋様が描かれている。
「ここね」
エリシアが扉を押す。
中には薬草の匂いが漂っていた。
待合室には長椅子が二つあり、その片方に腕を包帯で吊った男性が座っている。奥の部屋からは、何かをすり潰す音が聞こえた。
「すみませーん!」
「聞こえてるよ。そんなに大きな声を出さなくても」
奥から現れたのは、灰色の髪を後ろで束ねた女性だった。
年齢は四十代ほどだろうか。袖をまくった白い上着には、薄い緑色の染みがいくつもついている。
「診察かい?」
「はい。あ、私たちじゃないんですけど」
「だったら、まず事情を聞こうか」
女性は手を拭きながら受付の椅子に腰を下ろした。
エリシアはルカの母親について説明した。
三日前から熱が続いていること。咳が出ていること。食事も十分に取れていないこと。そして、家には診察代を払えるだけのお金がないこと。
女性は途中で何度か質問を挟み、最後まで聞くと眉を寄せた。
「三日か。本人を診ないと断言できないけど、あまり放っておきたくないね」
「診てもらえますか?」
「もちろん。ただ、往診になるなら費用がかかる」
エリシアの表情が曇った。
「どのくらいですか?」
「通常なら診察と往診で二百ユグド。薬は別だよ」
「二百……」
エリシアは腰の小袋を開いた。
硬貨を数え始めたものの、途中で手が止まる。
ジョシュアはその様子を横から見ていた。
金額を聞いても、それが高いのか安いのか判断できない。昼間、パンが一つ三十ユグドだったことを思い出して、ようやく六つ以上買える金額なのだと分かった。
「少し足りない?」
ジョシュアが小声で尋ねる。
「少しどころじゃないわよ」
エリシアも声を潜めて答えた。
「宿代を残さなかったら払えるけど、そうしたら私まで野宿よ」
「それは困るね」
「他人事みたいに言わないで。あんたも寝る場所ないんだから」
確かに、そのとおりだった。
女性は二人のやり取りを黙って見ていたが、やがて椅子から立ち上がった。
「事情は分かった。まず私が行って診よう」
エリシアが顔を上げる。
「えっ、でも、お金が……」
「診察代の話は後でいい。患者を見もしないうちから、帰れとは言わないよ」
「ありがとうございます!」
「ただし、払わなくていいとは言ってないからね」
女性は奥の棚から革鞄を取り出した。
「私はマルタ。この診療所で治療をしてる。家まで案内しておくれ」
「はい!」
エリシアは勢いよく返事をした。
その横でジョシュアも頭を下げる。
「よろしくお願いします」
マルタは二人を交互に見た。
「それにしても、ずいぶん若いね。患者とはどういう関係なんだい?」
「ええと……」
エリシアが言い淀む。
ジョシュアは少し考えてから答えた。
「今日、知り合いました」
「今日?」
「はい」
マルタは呆れたように息を吐いた。
「詳しい話は歩きながら聞くよ」
◇
ルカの家に戻るころには、空はすっかり赤く染まっていた。
扉を叩くと、すぐに少年が顔を出した。
「遅い!」
「ごめん。診てくれる人を連れてきたわ」
エリシアが横に立つマルタを示す。
ルカは一瞬固まり、それから勢いよく扉を開けた。
「こっち! 母ちゃん、奥にいる!」
「分かったから、少し落ち着きな」
マルタは靴についた泥を払い、室内へ入った。
寝台に横たわる女性は、先ほどよりも顔色が悪く見えた。
「こんばんは。診療所から来たマルタだよ。少し診せてもらうね」
女性は驚いたように目を見開いた。
「お医者様……? でも、うちには……」
「お金の話は後。今は身体の方が大事だ」
マルタは寝台の脇に椅子を寄せ、診察を始めた。
額に触れ、呼吸を確かめ、胸の音を聞く。咳が始まった時期や、熱が出る前に何をしていたかも尋ねていた。
ルカはその間、寝台の足元に立ったまま、ほとんど動かなかった。
ジョシュアも邪魔にならないよう、壁際に下がる。
「水は飲めているかい?」
「少しなら……」
「食事は?」
「昨日、パンを少し……」
「そうか」
マルタは鞄から小さな包みを取り出した。
「喉と胸に炎症があるね。今のところ、すぐに危険な状態とは思わない。ただ、熱が続いているし、体力も落ちている。今夜は様子を見て、悪くなるようならすぐに呼んでおくれ」
ルカが身を乗り出した。
「治るのか?」
「きちんと休んで、薬を飲んで、食べられるものを食べること。まずはそこからだよ」
「じゃあ、治るんだな?」
「必ずとは言えない。だから、明日も診せてもらいたいんだ」
マルタは少年の目を見て答えた。
ルカは唇を噛んだが、それ以上は聞かなかった。
ジョシュアは寝台の脇に置かれた水瓶を見た。
昼間に汲んだ水は、まだ半分ほど残っている。
「僕、お湯を沸かしてきましょうか?」
「助かるよ。清潔な鍋はあるかい?」
ルカが棚の下から小鍋を取り出した。
「これなら」
「よし。まず洗っておくれ」
ジョシュアが鍋を受け取ると、エリシアも立ち上がった。
「私も手伝う」
「じゃあ、火を見てもらえる?」
「任せて」
彼女はそう言ったものの、かまどの前にしゃがみ込んでから、少し困った顔をした。
「……薪、これだけ?」
隅に積まれていた薪は、細いものが数本しかなかった。
「昨日でほとんど使っちゃったんだ」
ルカが小さく答える。
エリシアは残った薪を見つめ、何かを言いかけてやめた。
代わりに小袋を開き、硬貨を数枚取り出す。
「ジョシュア。悪いけど、近くで薪を買ってきてもらえる?」
「分かった」
「道、覚えてる?」
「たぶん」
「……本当に?」
「帰ってこられなかったら困るから、ちゃんと覚えるよ」
「それ、余計に心配なんだけど」
エリシアはため息をつき、ルカに目を向けた。
「案内してあげて」
「えっ、俺?」
「この辺りには詳しいでしょ」
ルカは少し迷ってから頷いた。
「……分かった」
◇
薪を売っている店は、路地を二つ曲がったところにあった。
ルカはジョシュアの少し前を歩いていたが、店が見えてくると足を止めた。
「なあ」
「何?」
「……母ちゃん、本当に治るかな」
ジョシュアはすぐには答えられなかった。
マルタは、必ず治るとは言わなかった。
だから、自分が大丈夫だと言い切るわけにはいかない。
「僕には分からない」
「……そっか」
「でも、マルタさんは明日も診てくれるって言ってた。今は言われたことを守ろう」
ルカは俯いたまま、道端の小石を蹴った。
「俺、母ちゃんが死んだらどうしようって……ずっと」
声が震えていた。
「昨日の夜も咳が止まらなくてさ。俺が背中をさすっても、全然楽にならなくて」
ジョシュアは少年の隣に立った。
「怖かったんだね」
「……うん」
ルカは袖で目元をこすった。
「でも、財布を盗ったのは悪かったと思ってる。ほんとだぞ」
「うん」
「信じてないだろ」
「信じてるよ。ただ、盗られた人も困ったと思う」
ルカは黙った。
「財布を返したからって、なかったことにはならない。そこは、ちゃんと謝らないといけないと思う」
「……自警団に連れてくのか?」
「それはエリシアとも相談する。でも、逃げないで話した方がいい」
「捕まったら、母ちゃんが一人になる」
ジョシュアは少年の顔を見た。
ルカは必死だった。
母親を助けたい気持ちも、罰を受けるのが怖い気持ちも、どちらも本当なのだろう。
「だから、まずはお母さんのことを何とかしよう」
「……うん」
ルカは小さく頷いた。
それから、少しだけ歩く速さを上げた。
◇
二人が薪を抱えて戻ると、エリシアはマルタと話していた。
「……つまり、明日も薬が必要なんですね」
「そうだね。今夜の分は持ってきたけど、熱が下がらなければ追加がいる」
「費用は……」
「診察代も含めて、後でまとめて払ってもらうよ」
エリシアは苦笑した。
「ありがとうございます。でも、私、そんなに持ってなくて」
「見れば分かるよ」
マルタはあっさり言った。
「だから、無理に今すぐ払えとは言わない。ただし、支払う約束はしてもらう」
「はい」
「それと、あんたたち二人だけで全部抱え込むんじゃないよ。困っている人を助ける仕組みは、街にもあるんだから」
エリシアが首を傾げた。
「そうなんですか?」
「自警団の相談窓口や、教会の施療所がある。事情を話せば、できる範囲で手を貸してくれるかもしれない」
「……知らなかった」
「知らないなら、今覚えればいい」
マルタは薬包を机に置いた。
「この子の母親が働けない間のことも考えないとね。薬だけ渡して終わりじゃないんだから」
エリシアは真剣な顔で頷いた。
ジョシュアは抱えていた薪を床に下ろした。
「戻りました」
「おかえり。助かったわ」
エリシアが薪を受け取り、かまどに運んでいく。
ルカもその後を追った。
ジョシュアはマルタに近づいた。
「あの、僕にも何かできることはありますか?」
「そうだね。まずは、その水を温めてもらおうか」
「分かりました」
マルタは少し笑った。
「それと、あんたも顔色が良くないね。ちゃんと食べてるかい?」
「さっきパンを食べました」
「それだけ?」
「今日は、それが初めての食事です」
「……なるほど」
マルタはエリシアの方を見た。
「この子も放っておけないんじゃないかい?」
「そうなんですよ!」
エリシアが即座に答えた。
「記憶もお金もなくて、泊まる場所もないんです!」
「ちょっと、エリシア」
「本当のことでしょ!」
マルタはしばらくジョシュアを見つめた。
「記憶がない?」
「はい。自分の名前以外、思い出せなくて」
「頭を打った覚えは?」
「それも分かりません」
「頭痛や吐き気は?」
「今のところ、ありません」
マルタは腕を組んだ。
「そうかい。すぐに原因を決めつけることはできないね。時間があるときに、きちんと診察を受けた方がいい」
「分かりました」
「それまでは、無理をしないこと。急に具合が悪くなったら、すぐに診療所へ来るんだよ」
ジョシュアは頷いた。
自分のことは後回しにしていたが、言われてみれば、記憶を失っていること自体が普通ではない。
何かの病気なのか、それとも別の理由があるのか。
考えても、答えは出なかった。
◇
夜が近づくころ、ルカの母親は薬を飲み、ようやく眠りについた。
先ほどより呼吸が落ち着いているように見える。
マルタは明日の朝、もう一度様子を見に来ると約束して診療所へ戻っていった。
エリシアとジョシュアも帰ろうとしたが、ルカが扉の前に立った。
「……待って」
「どうしたの?」
エリシアが尋ねる。
ルカは俯いたまま、握りしめた拳を開いた。
手のひらには、小さな銅貨が数枚あった。
「これ、俺が持ってる金、全部」
「……ルカ?」
「薪とか、薬とか……足りないだろうけど」
エリシアは少年の手を見た。
「それは取っておきなさい」
「でも!」
「お母さんが起きたとき、何か食べるものが必要でしょ」
ルカは言葉に詰まった。
ジョシュアはその横から口を挟んだ。
「明日、僕たちもまた来るよ」
「……本当か?」
「うん。マルタさんにもお金を払わないといけないし」
「それは俺が……」
「一人で払うのは大変だと思う」
ジョシュアは少年の手のひらを見た。
銅貨は、まだそこにあった。
「だから、できることを探そう」
ルカはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……分かった」
エリシアはその様子を見て、腕を組んだ。
「それと、財布のことも忘れてないからね」
「……うん」
「明日、自警団の相談窓口に行きましょ。お母さんのことも含めて、ちゃんと話すの」
ルカの顔が強張った。
「……俺、捕まる?」
「分からない。でも、黙って逃げるより、事情を説明した方がいいと思う」
エリシアはしゃがみ、少年と目線を合わせた。
「私も一緒に行くから」
ルカはしばらくエリシアを見つめていた。
それから、かすかに頷いた。
「……分かった」
◇
家を出ると、通りには夜の冷たい空気が流れていた。
窓から漏れる灯りが、石畳に細長い影を落としている。
ジョシュアは空を見上げた。
星がいくつか見えた。
その名前も、並び方も分からない。
そもそも、自分が以前どんな空を見ていたのかさえ思い出せなかった。
「ねえ、ジョシュア」
エリシアが隣に並んだ。
「何?」
「今日、結局ほとんどお金使っちゃった」
「ごめん」
「何であんたが謝るのよ」
「僕のパンも買ってもらったから」
「それは約束したんだからいいの」
エリシアは小袋を揺らした。
中から、寂しい音がした。
「問題は明日よ。宿代は残したけど、明日のご飯代が心もとない」
「……働くしかないね」
「そういうこと」
エリシアは大きく伸びをした。
「私も明日は依頼を受けないと。しばらく休んでたから、そろそろ稼がないとまずいのよね」
「依頼?」
「冒険者ギルドの仕事よ」
聞き慣れない言葉だった。
「冒険者ギルド?」
「……そこから?」
エリシアは目を丸くした。
「魔物の討伐とか、荷物の護衛とか、薬草の採取とか。そういう仕事を紹介してくれるところ」
「誰でも働けるの?」
「登録は必要だけど、条件を満たせばね」
「僕でも?」
エリシアはジョシュアを見た。
昼間、ルカを捕まえたときの動きを思い出しているのだろう。
「……どうかしら。少なくとも、身体は動くみたいだけど」
「仕事があれば、お金を稼げるんだよね」
「そりゃそうだけど、危険な仕事もあるわよ。簡単に考えないでね」
「うん」
ジョシュアは少し考えた。
自分には家もない。知り合いもいない。どんな仕事をしていたのかも分からない。
けれど、何もしなければ明日の食事にも困る。
「明日、そこに連れていってもらえないかな」
エリシアが足を止めた。
「冒険者ギルドに?」
「うん。僕にもできる仕事があるか、聞いてみたい」
「……本気?」
「本気だよ」
エリシアは腕を組み、しばらく考え込んだ。
「まあ、見学するくらいならいいか」
「ありがとう」
「ただし、危ない依頼をいきなり受けるのは駄目だからね」
「分かった」
「あと、登録できるかどうかも分からないんだから」
「うん」
「それと……」
エリシアは言いかけて、ジョシュアの顔を見た。
「……何だか、あんたと話してると調子が狂うわ」
「どうして?」
「何でも素直に返事するんだもの」
「返事しない方がいい?」
「そういう意味じゃない!」
ジョシュアが笑うと、エリシアもつられて笑った。
しばらく歩いたところで、彼女は通りの先にある建物を指さした。
「あそこが私の泊まってる宿。空き部屋があるか聞いてみましょ」
「でも、僕はお金が……」
「分かってるわよ。まず事情を話してみるの」
建物の窓からは、暖かな灯りが漏れていた。
中からは食器の触れ合う音と、人々の笑い声が聞こえる。
ジョシュアはその光景を見つめた。
朝、目を覚ましたときには、自分がどこにいるのかさえ分からなかった。
それが今は、明日行く場所を一つ決めている。
冒険者ギルド。
その言葉を、ジョシュアは心の中でもう一度繰り返した。
「ほら、行くわよ」
エリシアが宿の扉を開ける。
ジョシュアは頷き、彼女の後に続いた。
明日の食事代をどうするか。
まずは、そこからだった。




