↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/43

明日の食事代

第3話 明日の食事代

パンの最後の一口を飲み込んだところで、ジョシュアは足を止めた。


「どうしたの?」


 先を歩いていたエリシアが振り返る。


「ごちそうさま。おいしかった」


「……わざわざ立ち止まって言うこと?」


「ちゃんとお礼を言ってなかったから」


「さっきから何回も言ってるじゃない」


 エリシアはそう言いながらも、少し嬉しそうだった。


 夕暮れの大通りには、仕事帰りの人々が行き交っていた。店先では商人が商品を片づけ始め、屋台からは夕食を求める客の声が聞こえてくる。


 ジョシュアは自分の腹を軽く押さえた。


 ようやく空腹が落ち着いた。さっきまで頭の中を占めていた食べ物のことも、今なら少し脇に置いておけそうだ。


「ところで、診療所はあとどのくらい?」


「この先の角を曲がって、もう少し。薬屋のおじさんがそう言ってたわ」


 エリシアは紙片を広げ、書かれた道順を確かめた。


「……たぶん」


「たぶん?」


「初めて行く場所なんだから仕方ないでしょ」


 ジョシュアが笑うと、エリシアは紙片を畳んで歩き出した。


 角を曲がると、大通りの喧騒が少し遠ざかった。


 石造りの建物が並ぶ通りの奥に、白い布を掲げた小さな診療所があった。布には、杖に巻きつく蔓のような紋様が描かれている。


「ここね」


 エリシアが扉を押す。


 中には薬草の匂いが漂っていた。


 待合室には長椅子が二つあり、その片方に腕を包帯で吊った男性が座っている。奥の部屋からは、何かをすり潰す音が聞こえた。


「すみませーん!」


「聞こえてるよ。そんなに大きな声を出さなくても」


 奥から現れたのは、灰色の髪を後ろで束ねた女性だった。


 年齢は四十代ほどだろうか。袖をまくった白い上着には、薄い緑色の染みがいくつもついている。


「診察かい?」


「はい。あ、私たちじゃないんですけど」


「だったら、まず事情を聞こうか」


 女性は手を拭きながら受付の椅子に腰を下ろした。


 エリシアはルカの母親について説明した。


 三日前から熱が続いていること。咳が出ていること。食事も十分に取れていないこと。そして、家には診察代を払えるだけのお金がないこと。


 女性は途中で何度か質問を挟み、最後まで聞くと眉を寄せた。


「三日か。本人を診ないと断言できないけど、あまり放っておきたくないね」


「診てもらえますか?」


「もちろん。ただ、往診になるなら費用がかかる」


 エリシアの表情が曇った。


「どのくらいですか?」


「通常なら診察と往診で二百ユグド。薬は別だよ」


「二百……」


 エリシアは腰の小袋を開いた。


 硬貨を数え始めたものの、途中で手が止まる。


 ジョシュアはその様子を横から見ていた。


 金額を聞いても、それが高いのか安いのか判断できない。昼間、パンが一つ三十ユグドだったことを思い出して、ようやく六つ以上買える金額なのだと分かった。


「少し足りない?」


 ジョシュアが小声で尋ねる。


「少しどころじゃないわよ」


 エリシアも声を潜めて答えた。


「宿代を残さなかったら払えるけど、そうしたら私まで野宿よ」


「それは困るね」


「他人事みたいに言わないで。あんたも寝る場所ないんだから」


 確かに、そのとおりだった。


 女性は二人のやり取りを黙って見ていたが、やがて椅子から立ち上がった。


「事情は分かった。まず私が行って診よう」


 エリシアが顔を上げる。


「えっ、でも、お金が……」


「診察代の話は後でいい。患者を見もしないうちから、帰れとは言わないよ」


「ありがとうございます!」


「ただし、払わなくていいとは言ってないからね」


 女性は奥の棚から革鞄を取り出した。


「私はマルタ。この診療所で治療をしてる。家まで案内しておくれ」


「はい!」


 エリシアは勢いよく返事をした。


 その横でジョシュアも頭を下げる。


「よろしくお願いします」


 マルタは二人を交互に見た。


「それにしても、ずいぶん若いね。患者とはどういう関係なんだい?」


「ええと……」


 エリシアが言い淀む。


 ジョシュアは少し考えてから答えた。


「今日、知り合いました」


「今日?」


「はい」


 マルタは呆れたように息を吐いた。


「詳しい話は歩きながら聞くよ」


◇


 ルカの家に戻るころには、空はすっかり赤く染まっていた。


 扉を叩くと、すぐに少年が顔を出した。


「遅い!」


「ごめん。診てくれる人を連れてきたわ」


 エリシアが横に立つマルタを示す。


 ルカは一瞬固まり、それから勢いよく扉を開けた。


「こっち! 母ちゃん、奥にいる!」


「分かったから、少し落ち着きな」


 マルタは靴についた泥を払い、室内へ入った。


 寝台に横たわる女性は、先ほどよりも顔色が悪く見えた。


「こんばんは。診療所から来たマルタだよ。少し診せてもらうね」


 女性は驚いたように目を見開いた。


「お医者様……? でも、うちには……」


「お金の話は後。今は身体の方が大事だ」


 マルタは寝台の脇に椅子を寄せ、診察を始めた。


 額に触れ、呼吸を確かめ、胸の音を聞く。咳が始まった時期や、熱が出る前に何をしていたかも尋ねていた。


 ルカはその間、寝台の足元に立ったまま、ほとんど動かなかった。


 ジョシュアも邪魔にならないよう、壁際に下がる。


「水は飲めているかい?」


「少しなら……」


「食事は?」


「昨日、パンを少し……」


「そうか」


 マルタは鞄から小さな包みを取り出した。


「喉と胸に炎症があるね。今のところ、すぐに危険な状態とは思わない。ただ、熱が続いているし、体力も落ちている。今夜は様子を見て、悪くなるようならすぐに呼んでおくれ」


 ルカが身を乗り出した。


「治るのか?」


「きちんと休んで、薬を飲んで、食べられるものを食べること。まずはそこからだよ」


「じゃあ、治るんだな?」


「必ずとは言えない。だから、明日も診せてもらいたいんだ」


 マルタは少年の目を見て答えた。


 ルカは唇を噛んだが、それ以上は聞かなかった。


 ジョシュアは寝台の脇に置かれた水瓶を見た。


 昼間に汲んだ水は、まだ半分ほど残っている。


「僕、お湯を沸かしてきましょうか?」


「助かるよ。清潔な鍋はあるかい?」


 ルカが棚の下から小鍋を取り出した。


「これなら」


「よし。まず洗っておくれ」


 ジョシュアが鍋を受け取ると、エリシアも立ち上がった。


「私も手伝う」


「じゃあ、火を見てもらえる?」


「任せて」


 彼女はそう言ったものの、かまどの前にしゃがみ込んでから、少し困った顔をした。


「……薪、これだけ?」


 隅に積まれていた薪は、細いものが数本しかなかった。


「昨日でほとんど使っちゃったんだ」


 ルカが小さく答える。


 エリシアは残った薪を見つめ、何かを言いかけてやめた。


 代わりに小袋を開き、硬貨を数枚取り出す。


「ジョシュア。悪いけど、近くで薪を買ってきてもらえる?」


「分かった」


「道、覚えてる?」


「たぶん」


「……本当に?」


「帰ってこられなかったら困るから、ちゃんと覚えるよ」


「それ、余計に心配なんだけど」


 エリシアはため息をつき、ルカに目を向けた。


「案内してあげて」


「えっ、俺?」


「この辺りには詳しいでしょ」


 ルカは少し迷ってから頷いた。


「……分かった」


◇


 薪を売っている店は、路地を二つ曲がったところにあった。


 ルカはジョシュアの少し前を歩いていたが、店が見えてくると足を止めた。


「なあ」


「何?」


「……母ちゃん、本当に治るかな」


 ジョシュアはすぐには答えられなかった。


 マルタは、必ず治るとは言わなかった。


 だから、自分が大丈夫だと言い切るわけにはいかない。


「僕には分からない」


「……そっか」


「でも、マルタさんは明日も診てくれるって言ってた。今は言われたことを守ろう」


 ルカは俯いたまま、道端の小石を蹴った。


「俺、母ちゃんが死んだらどうしようって……ずっと」


 声が震えていた。


「昨日の夜も咳が止まらなくてさ。俺が背中をさすっても、全然楽にならなくて」


 ジョシュアは少年の隣に立った。


「怖かったんだね」


「……うん」


 ルカは袖で目元をこすった。


「でも、財布を盗ったのは悪かったと思ってる。ほんとだぞ」


「うん」


「信じてないだろ」


「信じてるよ。ただ、盗られた人も困ったと思う」


 ルカは黙った。


「財布を返したからって、なかったことにはならない。そこは、ちゃんと謝らないといけないと思う」


「……自警団に連れてくのか?」


「それはエリシアとも相談する。でも、逃げないで話した方がいい」


「捕まったら、母ちゃんが一人になる」


 ジョシュアは少年の顔を見た。


 ルカは必死だった。


 母親を助けたい気持ちも、罰を受けるのが怖い気持ちも、どちらも本当なのだろう。


「だから、まずはお母さんのことを何とかしよう」


「……うん」


 ルカは小さく頷いた。


 それから、少しだけ歩く速さを上げた。


◇


 二人が薪を抱えて戻ると、エリシアはマルタと話していた。


「……つまり、明日も薬が必要なんですね」


「そうだね。今夜の分は持ってきたけど、熱が下がらなければ追加がいる」


「費用は……」


「診察代も含めて、後でまとめて払ってもらうよ」


 エリシアは苦笑した。


「ありがとうございます。でも、私、そんなに持ってなくて」


「見れば分かるよ」


 マルタはあっさり言った。


「だから、無理に今すぐ払えとは言わない。ただし、支払う約束はしてもらう」


「はい」


「それと、あんたたち二人だけで全部抱え込むんじゃないよ。困っている人を助ける仕組みは、街にもあるんだから」


 エリシアが首を傾げた。


「そうなんですか?」


「自警団の相談窓口や、教会の施療所がある。事情を話せば、できる範囲で手を貸してくれるかもしれない」


「……知らなかった」


「知らないなら、今覚えればいい」


 マルタは薬包を机に置いた。


「この子の母親が働けない間のことも考えないとね。薬だけ渡して終わりじゃないんだから」


 エリシアは真剣な顔で頷いた。


 ジョシュアは抱えていた薪を床に下ろした。


「戻りました」


「おかえり。助かったわ」


 エリシアが薪を受け取り、かまどに運んでいく。


 ルカもその後を追った。


 ジョシュアはマルタに近づいた。


「あの、僕にも何かできることはありますか?」


「そうだね。まずは、その水を温めてもらおうか」


「分かりました」


 マルタは少し笑った。


「それと、あんたも顔色が良くないね。ちゃんと食べてるかい?」


「さっきパンを食べました」


「それだけ?」


「今日は、それが初めての食事です」


「……なるほど」


 マルタはエリシアの方を見た。


「この子も放っておけないんじゃないかい?」


「そうなんですよ!」


 エリシアが即座に答えた。


「記憶もお金もなくて、泊まる場所もないんです!」


「ちょっと、エリシア」


「本当のことでしょ!」


 マルタはしばらくジョシュアを見つめた。


「記憶がない?」


「はい。自分の名前以外、思い出せなくて」


「頭を打った覚えは?」


「それも分かりません」


「頭痛や吐き気は?」


「今のところ、ありません」


 マルタは腕を組んだ。


「そうかい。すぐに原因を決めつけることはできないね。時間があるときに、きちんと診察を受けた方がいい」


「分かりました」


「それまでは、無理をしないこと。急に具合が悪くなったら、すぐに診療所へ来るんだよ」


 ジョシュアは頷いた。


 自分のことは後回しにしていたが、言われてみれば、記憶を失っていること自体が普通ではない。


 何かの病気なのか、それとも別の理由があるのか。


 考えても、答えは出なかった。


◇


 夜が近づくころ、ルカの母親は薬を飲み、ようやく眠りについた。


 先ほどより呼吸が落ち着いているように見える。


 マルタは明日の朝、もう一度様子を見に来ると約束して診療所へ戻っていった。


 エリシアとジョシュアも帰ろうとしたが、ルカが扉の前に立った。


「……待って」


「どうしたの?」


 エリシアが尋ねる。


 ルカは俯いたまま、握りしめた拳を開いた。


 手のひらには、小さな銅貨が数枚あった。


「これ、俺が持ってる金、全部」


「……ルカ?」


「薪とか、薬とか……足りないだろうけど」


 エリシアは少年の手を見た。


「それは取っておきなさい」


「でも!」


「お母さんが起きたとき、何か食べるものが必要でしょ」


 ルカは言葉に詰まった。


 ジョシュアはその横から口を挟んだ。


「明日、僕たちもまた来るよ」


「……本当か?」


「うん。マルタさんにもお金を払わないといけないし」


「それは俺が……」


「一人で払うのは大変だと思う」


 ジョシュアは少年の手のひらを見た。


 銅貨は、まだそこにあった。


「だから、できることを探そう」


 ルカはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「……分かった」


 エリシアはその様子を見て、腕を組んだ。


「それと、財布のことも忘れてないからね」


「……うん」


「明日、自警団の相談窓口に行きましょ。お母さんのことも含めて、ちゃんと話すの」


 ルカの顔が強張った。


「……俺、捕まる?」


「分からない。でも、黙って逃げるより、事情を説明した方がいいと思う」


 エリシアはしゃがみ、少年と目線を合わせた。


「私も一緒に行くから」


 ルカはしばらくエリシアを見つめていた。


 それから、かすかに頷いた。


「……分かった」


◇


 家を出ると、通りには夜の冷たい空気が流れていた。


 窓から漏れる灯りが、石畳に細長い影を落としている。


 ジョシュアは空を見上げた。


 星がいくつか見えた。


 その名前も、並び方も分からない。


 そもそも、自分が以前どんな空を見ていたのかさえ思い出せなかった。


「ねえ、ジョシュア」


 エリシアが隣に並んだ。


「何?」


「今日、結局ほとんどお金使っちゃった」


「ごめん」


「何であんたが謝るのよ」


「僕のパンも買ってもらったから」


「それは約束したんだからいいの」


 エリシアは小袋を揺らした。


 中から、寂しい音がした。


「問題は明日よ。宿代は残したけど、明日のご飯代が心もとない」


「……働くしかないね」


「そういうこと」


 エリシアは大きく伸びをした。


「私も明日は依頼を受けないと。しばらく休んでたから、そろそろ稼がないとまずいのよね」


「依頼?」


「冒険者ギルドの仕事よ」


 聞き慣れない言葉だった。


「冒険者ギルド?」


「……そこから?」


 エリシアは目を丸くした。


「魔物の討伐とか、荷物の護衛とか、薬草の採取とか。そういう仕事を紹介してくれるところ」


「誰でも働けるの?」


「登録は必要だけど、条件を満たせばね」


「僕でも?」


 エリシアはジョシュアを見た。


 昼間、ルカを捕まえたときの動きを思い出しているのだろう。


「……どうかしら。少なくとも、身体は動くみたいだけど」


「仕事があれば、お金を稼げるんだよね」


「そりゃそうだけど、危険な仕事もあるわよ。簡単に考えないでね」


「うん」


 ジョシュアは少し考えた。


 自分には家もない。知り合いもいない。どんな仕事をしていたのかも分からない。


 けれど、何もしなければ明日の食事にも困る。


「明日、そこに連れていってもらえないかな」


 エリシアが足を止めた。


「冒険者ギルドに?」


「うん。僕にもできる仕事があるか、聞いてみたい」


「……本気?」


「本気だよ」


 エリシアは腕を組み、しばらく考え込んだ。


「まあ、見学するくらいならいいか」


「ありがとう」


「ただし、危ない依頼をいきなり受けるのは駄目だからね」


「分かった」


「あと、登録できるかどうかも分からないんだから」


「うん」


「それと……」


 エリシアは言いかけて、ジョシュアの顔を見た。


「……何だか、あんたと話してると調子が狂うわ」


「どうして?」


「何でも素直に返事するんだもの」


「返事しない方がいい?」


「そういう意味じゃない!」


 ジョシュアが笑うと、エリシアもつられて笑った。


 しばらく歩いたところで、彼女は通りの先にある建物を指さした。


「あそこが私の泊まってる宿。空き部屋があるか聞いてみましょ」


「でも、僕はお金が……」


「分かってるわよ。まず事情を話してみるの」


 建物の窓からは、暖かな灯りが漏れていた。


 中からは食器の触れ合う音と、人々の笑い声が聞こえる。


 ジョシュアはその光景を見つめた。


 朝、目を覚ましたときには、自分がどこにいるのかさえ分からなかった。


 それが今は、明日行く場所を一つ決めている。


 冒険者ギルド。


 その言葉を、ジョシュアは心の中でもう一度繰り返した。


「ほら、行くわよ」


 エリシアが宿の扉を開ける。


 ジョシュアは頷き、彼女の後に続いた。


 明日の食事代をどうするか。


 まずは、そこからだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。